Monthly
Special * April 2006 William Henry Davies |
THE KINGFISHER
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翡 翠
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William Henry Davies
(1871-1940) 放浪生活を送った後、34才のときに詩人となった。詩集は死後、1943年に出版された。散文作品 The autobiography of a Super-tranp (1908) に、その人生の一部が窺われるという。 古くから親しまれたカワセミは、ブルーの背に濃いオレンジ色の腹で、目や耳のあたりにもオレンジ色の羽がある美しい鳥。川や池の近く棲む種類がよく知られるが、草原や森林に棲息する種もある。 ギリシア神話では、海で死んだ夫の元へ妻がこの鳥になって駆けつけ、その夫も神の情けによって同じ鳥に姿を変えられたという。 カワセミの漢字表記『翡翠』は宝石のヒスイと同じで、『翡』はオスの、『翠』はメスのカワセミを表すのだそうだ。 自然の造形には、人間の目など全く関係なく決まったはずなのに、人間にとって美しいと感じられるものが数多くある。とくに鳥の色や装飾は、生存上の必然性をこえてデザインされたかのようで不思議なことが多い。 しかし、その生き物自身は、自分の外見ゆえに「proud」になるだろうか。たとえば庭園に飼われた孔雀が高慢そうに見えるのは、人間の心の投影ではないだろうか。あんなに美しく豪華な装いをしているなら。金貨を積んででも求められるなら。人間なら、それできっと高慢になるだろう。 あるいは、「孔雀は高慢」という表現が記憶に刷り込まれていて、そのつもりで見るからそう見えることもあるのではないか。 この詩では、自然そのものも人間の心というフィルターを通して描かれている。Davies にとって、自然は「女性」なのだ。これは昔からの「Nature = 自然の女神」というとらえ方と同じだが、Davies の自然は祖母・母と続く。その子供であるカワセミもやはり娘なのだろう。 さらに、深く繁って張り出した木の枝は「胸」で、その下にうずくまる詩人はまるで母親の胸の下で膝にやすらぐ幼児となる。あるいは、恋人の胸に抱かれるイメージ。 それにしても、ラストの光景で、カワセミの居所がない。主役ではなかったのだろうか? |