Monthly Special * March 2003
 Charles Dickens

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デイヴィッド・コパフィールド


第1章 私は生まれる



私がこの自伝の主人公となるか、あるいはその地位は誰か他の者によって占められるのか、それは以下のページが明らかにすることとなる。私の生の始まりから自伝を始めるに当たって、私は(そう教えられ信じてきたところでは)金曜日の夜中12時に生まれたことを記しておく。時計が12時を打ち始めるのと同時に、私が産声を上げたということであった。

私の生まれた曜日と時刻から、乳母や近所の訳知り顔の女たち(お近づきになれる数ヶ月前から、私に興味津々だった)が、私についてはっきりと申し述べたことがあった。それはまず、不幸な人生が運命づけられていること、そして、幽霊やら霊やらを見る能力に恵まれているということだった。

彼女たちが信じていたところでは、金曜の丑三つ時あたりに生まれた縁起のよくない赤ん坊は、男女を問わず、そのように定められているのであった。

第一の項目についてここで述べる必要はない。なぜなら、その予言が結果として当たったかはずれたかについては、他の何よりも、この自伝がハッキリさせてくれるからである。

問題の第二項目については、以下のことを申し上げるにとどめたい。すなわち、持って生まれたその遺産を赤ん坊のうちに使い果たしたというのでなければ、私はいまだにそれを手にしていない。しかし、この財産の恩恵にあずかれないからといって、私は全く不満に思わない。それどころか、もし誰か他の人が現在それを享受しているというのであれば、心から喜んで、そうしていただいていいと思うものである。

私は胞衣<えな>をかぶって生まれてきた。その胞衣は、十五ギニーという安値をつけて新聞広告で売りに出された。だが、ちょうど船乗り業界の人々にお金が足らなかったのか、あるいは信心が足らなくてコルク製救命胴衣の方を選んだのか、それはわからない。

<胞衣: 生まれてきた赤ん坊の頭が羊膜の一部に覆われていることがあり、これは幸運の印とされた。また、水難よけのお守りとして使われた。>
<12ペンス=1シリング、20シリング=1ポンド、21シリング=1ギニー(金貨)、5シリング=1クラウン(銀貨)。1970年以前の制度。>


私が知っているのは、入札は一件だけだったこと、その手形仲買業に関わる弁護士は、二ポンドを現金で、残りはシェリー酒で支払いたいと申し出たが、それ以上高い買い物をしてまで溺死を免れたいとは思わなかったということだった。

<シェリー酒: アルコール度の高い白ワイン。本来はスペイン南部産の高級品。>

けっきょく広告はなんの甲斐もなく引っ込められた。シェリーなら、いらなかった。気の毒な私の母親のシェリーが当時売りに出されていたくらいだから。それから十年経って、問題の胞衣は近隣で行われた富くじ販売に出された。五十人が一人あたり半クラウン出して参加し、くじに当たれば五シリングで品物を買うことになっていた。

私もその会場に行ったが、自分の一部がそんなふうに売却されるのを見て、とても気まずくて妙な感じがしたのを覚えている。たしか、胞衣はバスケットを持った婆さんが買った。規定どおりの五シリングをバスケットからしぶしぶと取り出すのだが、それがみんな半ペニー硬貨で、しかも二ペンス半足らないのだ。それを当人にわからせようとするのだが、いくら時間をかけて算数してみせても、全くの無駄なのだった。

<5シリングだと半ペニー銅貨120枚になるが、それが5枚足りなかったことになる。>

その婆さんがけっして溺死することなく、九十二まで生きてベッドの上で大往生を遂げたことは、そのあたりでは長く記憶されるであろう事実である。橋の上をのぞいては、生まれてから一度も水の上に出たことがないというのが、婆さんが死ぬまで自慢していたことだった。そして、お茶を飲みながら(お茶に目がなかった)、船員やらなにやら世界中をほっつき歩く輩の不遜さに、最期まで憤慨していたものだ。

お茶もそうだろうが、便利な品物の中にはそのけしからぬ行為によってもたらされるものもあるのだと、説明しても駄目だった。婆さんはいつも、自分の意見は正しいと本能的に認識しているのか、さらに強く言い返すのだった。「ほっつき歩きはやめとこうじゃないか。」

私もここでほっつき歩きはやめにして、私の誕生に話を戻そう。

私はサフォーク州のブランダストン『かそこらへん』(スコットランド風に言えば)で生まれた。私は父親の死後に生まれた。つまり、私の目が開く六ヶ月前に、父親の瞼はこの世の光を閉ざしていたのだった。

父親が私を見ることはなかったのだと思うと、今でも何かしら奇妙な感じがする。さらに奇妙さを覚えるのは、墓地にある父親の白い墓石を見て自分が子供心に抱いた第一印象をぼんやりと想い出すときだ。同じく、暗い夜そこにぽつんと置かれた墓石に言い表しようのない同情を寄せたことなども。自分たちの小さな居間は暖炉の火と蝋燭で暖かく明るいのに、家の戸口は――残酷なまでに、と時々思えたが――閂を下ろし鍵をかけて墓石を閉め出しているのだと。

父親の伯母つまり私の大伯母についてはやがて詳しく語ることにしたいが、この人は我が家では第一の大物であった。ミス・トロットウッドという。私の哀れな母親はいつもミス・ベッツィーと呼んでいた。ただし、その名を口にすることができたのは、この恐るべき人物に対する恐怖心をなんとか押さえられたときだけだった(滅多になかった)。

大伯母は年下の男と結婚した。たいへんな男前だったが、それは「男前は行いで決まる」というお馴染みの格言の意味するところを除いての話で――というのは、その男はミス・ベッツィーを殴ったり、さらに、金の問題で言い争いになったときには、三階の窓から咄嗟にではあるが確信的に彼女を突き落とそうとした疑いが強く持たれていたのである。

性格が全く合わない証拠をそのように見せつけられて、ミス・ベッツィーは金で縁を切ることにし、双方の合意により別れることとなった。

その男は財産を持ってインドに渡った。私たちの突飛な噂によれば、バブーン<大猿>と一緒に象に乗っていたとかいうのだが、バブーンではなくて、バブーと呼ばれるインド人紳士か、それともベガム、つまりインド人レディだったに違いないと思う。いずれにせよ、十年経たないうちに、その男の死亡通知がインドから届いた。

その十年で大伯母がどう変わったか、誰にもわからない。離婚するとすぐに独身時代の名前に戻り、遠い海べりの小村にコテージを買って、召使いを一人だけ置いて独身生活を送ることにしたからだ。それ以後はずっと引きこもり、頑固なまでの隠遁生活を送っているものと思われていた。

私の父親はかつては大伯母のお気に入りだったのだと、私は思う。しかし、父が『蝋人形』と結婚したことで、大伯母は決定的に機嫌を損ねてしまったのだ。大伯母は私の母親に会ったことはなかったが、二十歳にもなっていないことは知っていた。父とミス・ベッツィーはそれ以後一度も会うことはなかった。

結婚したとき、父は母の倍の年齢で、体が弱かった。父はその一年後に世を去り、すでに述べたように、それは私がこの世に生まれる六ヶ月前のことだったのである。

これが、自分でそう言うのをお許しいただくことにして、あの重大にして重要な金曜日の午後における状況であった。したがって、私には当時の状況を自分で知っていたと主張することはできない。また、次に述べる事柄について、証拠とすべき私自身の感覚に基づく記憶があると主張できるものでもない。

母は炉端にかけ、涙を浮かべて火を眺めていた。体調はすぐれず、気分は落ち込んで、自分のこと、そしてこれから生まれてくる父なし子のことを考えて、すっかり悲観的になっていた。二階の箪笥には、安産を願って数え切れない針を刺したピンクッションが入っており、すでにこの子の誕生を歓迎していた。その子が生まれたからといって、この世は少しも喜びなどしないのに。

<安産のお守り。針を針刺しに並べて刺し、安産を祈る文句にしたもの。>

さて、私の母はある晴れた風の強い三月の午後、炉端に座っていた。おどおどとして悲嘆にくれ、はたして目前に迫った試練<出産>を生きて乗り越えられるだろうかと、心許なさで胸がいっぱいだった。

母は涙をぬぐおうと、向かい側の窓のほうに目を上げた。すると、見たことのない婦人が庭をやって来るのが見えた。

再び目をやって、ミス・ベッツィーに違いないと母は予感した。庭の垣根越しに、夕陽がその見知らぬ婦人を明るく照らしている。恐ろしいくらい硬い姿勢に落ち着き払った顔つきをして玄関に近づいてくるのだが、その様子は他の人物ではあり得なかった。

家のところまでやって来ると、その婦人は自分の正体についてもう一つ証拠を示した。大伯母は普通のまともな人間のように振る舞うことは滅多にないというようなことを、父はしばしば言っていた。そしてやはり、呼び鈴を鳴らす代わりに、大伯母は母が見ているその窓にやってきて覗き込み、鼻の先をガラスに押し当てたのである。母がよく言っていたところによれば、大伯母の鼻は一瞬で完璧に平たく白くなってしまった。

母はひどいショックを受けた。だから、私が金曜日に生まれたのはミス・ベッツィーのおかげなのだと、私はずっと思ってきた。

取り乱した母は椅子から立ち上がり、その後ろの部屋の隅に引っ込んだ。ミス・ベッツィーはゆっくりと探るように部屋を見回した。部屋の端から始めて、オランダ時計についているサラセン人の目玉みたいに目を動かしていって、ついに母を見つけた。

すると大伯母はしかめ面をして、いかにも人を使い慣れた感じで、玄関を開けに来るようにと身振りをして見せた。母は開けに行った。

「デイヴィッド・コパフィールド夫人、だと思うがね?」 ミス・ベッツィーが言った。強調したのは、たぶん、母の喪服と身重の様子を見てのことだろう。

「そうです。」 母の声は消え入りそうだった。

「ミス・トロットウッド。 名前はお聞きだね?たぶん。」

母は、お名前は存じ上げておりますと答えた。そう言っておいて、その言い方ではお名前を存じ上げていて嬉しかったようには聞こえなかったのではないかと、落ち込んだ。

「その本人だよ。」 そう言うミス・ベッツィーに母は頭を下げ、お入りくださいと言った。

二人は母が座っていた居間に入った。廊下の向こう側にある客間は、暖炉に火が入っていなかったからだ――全くの話、父の葬式以来、火が入ったことはなかったのである。二人とも腰を下ろしたが、ミス・ベッツィーは何も言わない。抑えようとしたがどうしても駄目で、母は泣き出してしまった。

「ああ、ちょっとちょっと!」 ミス・ベッツィーはあわてた。 「おやめよ、ほらほら。」

それでも母はどうすることもできず、結局一泣きしてしまった。

「帽子を取ってごらん。」 ミス・ベッツィーが言った。「顔をお見せよ。」

たとえ拒もうと思ったとしても、母は相手をたいそう畏れていたから、この奇妙な要求をはねつけることなどできなかった。だから母は言われたとおりにしたのだが、緊張してあせったので、髪が(豊かで美しかった)すっかり顔にかぶってしまった。

「あら、おやまあ!」 ミス・ベッツィーは声をあげた。「ほんとうに、赤ん坊じゃないかね!」

確かに、その年齢を考えても、母はたいへんに若く見えた。かわいそうに、母はまるでそれが自分の落ち度でもあるように頭を垂れ、すすり泣きながら言った。ほんとうに自分は子供っぽい未亡人で、もし生きていられたとしても子供みたいな母親にしかなれないんです、と。

そのあと少し沈黙が続き、その間に母はふとミス・ベッツィーが自分の髪にふれたような気がした。それも、やさしくないことはない手で。ところが、おどおどしながらも希望を持ちつつ見てみると、大伯母はスカートをたくし上げて手を膝の上で組み、足を炉囲いにかけて、火に向かってしかめ面をしているのだった。

「いったいぜんたい」と、ミス・ベッツィーが出し抜けに言った。「なぜルカリ<ミヤマガラスの森>なんだね?」

「この家のことでしょうか?伯母様。」

「なぜルカリなんだね?」 ミス・ベッツィーが言う。「クカリ<料理法>とでもした方がよかっただろうに、あんたがたのどっちかでも、実際的な考えをもっていたとしたらね。」

「家の名前は主人がつけたんです。」 母はそう返答した。 「ここを買ったときに、主人は、あたりにミヤマガラスがいるといいね、って。」

ちょうど夕方の風が庭の向こうの端に立っている楡の木々を激しく揺すぶったので、母もミス・ベッツィーも、そちらに目を向けずにはおれなかった。

楡の木がお互いに身をかがめ、それは秘密を耳打ちしている巨人のようだった。そうして、一瞬動きを止めると、またいっせいに激しく揺れ動き腕を振り回す。まるで、さっきの内緒話があまりに邪だったので平静が保てなくなったかのように。雨風でぼろぼろになったミヤマガラスの古巣がいくつか高い枝に掛かっていて、それが嵐の海にもまれる難破船のように揺れていた。

「鳥は、どこにいるんだね?」

「何がでしょう?」 母は他のことを考えていた。

「ミヤマガラスだよ。どうなっちまったんだね?」

「ここに来たときから、一羽もいませんでした。」 母はそう答えた。「とってもたくさんミヤマガラスの巣があるって、私たち――主人は――思ったんです。でも、ずいぶん古い巣で、だから、鳥たちはずっと前にいなくなってしまったんでしょう。」

「まったくもってデイヴィッド・コパフィールドらしいこと!」 ミス・ベッツィーは大声を出した。「頭のてっぺんから足の先までさ! 巣があるからってミヤマガラスがいると決めつけるは、まわりに一羽もいやしないのに家にルカリなんて名前をつけるは!」

母は言い返した。「主人は、死んだ人間です。あなたが主人のことを意地悪くおっしゃるのなら――」

気の毒に、一瞬にせよ私の母は大伯母と一戦交えようというつもりになったのだろう。だが、そうしたところで、相手は片手で簡単に母を片づけてしまったことだろう。たとえ母がこうした対戦をするのにその日の夕方よりももっとコンディションがよかったとしてもだ。しかし、その勢いも、椅子から立ち上がるだけで果ててしまった。母は意気地なくまた椅子に座り、そして気を失った。

母が気づいたとき、それとも大伯母が意識を取り戻させたのかもしれないが、どちらにせよ、大伯母は窓のところに立っていた。すでに黄昏は闇へと変わっていた。お互いの顔もはっきりとはせず、だが、それでもまだ暖炉の火があったから見えたのだ。

「それで?」 椅子に戻りながら、まるで気軽に景色を眺めていたかのように、大伯母が言った。 「それで、予定はいつなんだね?」

「私、恐くてたまらないんです。」 母は口ごもった。「何がなんだか、わからなくて。きっと、死んでしまいます!」

「だいじょうぶだったら。お茶でもお飲みよ。」

「まあ、お茶を飲めば良くなるとでも?」 母は力なく叫んだ。

「もちろんだね。ただの気のせいなんだから。あんた、女のコの名前は?」

「まだ女の子かどうかわかりません、伯母様。」 無邪気な母がそう言う。

「この子に幸せを!」 ミス・ベッツィーのそのセリフは、二階の箪笥に入っているピンクッションの安産守りに書かれた第二句を知らずに引用したことになるのだが、ただし、私ではなく、母のことを言ったのだった。 「そのことじゃなくて。召使いだよ。」

「ペゴティです。」

「ペゴティ!」 ちょっと腹立たしげに、ミス・ベッツィーは繰り返した。 「いやしくも人間が教会へ行ってペゴティなんて名前つけてもらったって、そう言うわけかい?」

「名字なんです。母は消え入りそうに言った。 「主人がそう呼んでたんです、洗礼名が私と同じだったものですから。」

「ペゴティ!」 居間のドアを開けてミス・ベッツィーが大声を出した。 「お茶を持っておいで。奥様の気分がすぐれないんだから。ぐずぐずするんじゃないよ。」

ミス・ベッツィーは、まるでこの家ができて以来の権威者であったかのような勢いでもってこの命令を下した。そうしてドアから顔を出し、聞き慣れない声を聞いて驚いたペゴティーが蝋燭を手にして廊下をやってきたところと鉢合わせした。ミス・ベッツィーはドアを閉めると、さっきのようにして椅子にかけた。つまり、足を炉格子にかけて、スカートをたくし上げ、膝にのせた手を組んで。

「生まれてくるのは女の子だとか、お言いだね。」 ミス・ベッツィーが言った。「私も間違いなく女の子だと思うよ。女の子に違いないって予感がする。それで、女の子が生まれたその瞬間からだね――」

「たぶん、男の子です。」 母は、失礼ながらも言葉を差し挟んだ。

「女の子に違いない予感がするって、言ってるんだけどね。」 ミス・ベッツィーが言い返す。「反対おしでないよ。その子が生まれたその瞬間からね、お友達になるつもり。私が名付け親になるから、あんたはその子をベッツィー・トロットウッド・コパフィールドと呼んでやって欲しいんだよ。

「『今度生まれてくる』ベッツィー・トロットウッドの人生に間違いなんて起こっちゃならない。ベッツィーの愛情をもてあそぶなんてことは、あっちゃならないんだよ、ほんとにねえ。ちゃんと育てて、そんな値打ちもないのに信じてしまうなんて馬鹿げた真似をさせないようにしなくちゃね。そういうことを、この私が、ぜひ引き受けたいと思うんだよ。」

そう言いながら、ミス・ベッツィーは一区切りごとに頭をふった。昔自分が受けた不当な仕打ちが胸の中でうずいているのだが、はっきりと言うのはぐっとこらえて、頭をふるだけにしているかのようだった。

少なくとも母は、暖炉の薄明かりで相手を見ながら、そんな気がした。だが、ミス・ベッツィーはあまりにも恐いし、自分でも不安で、落ち込んでいるうえに混乱していたので、何にせよはっきりと見て取ることはできなかった。何と言ったらいいかもわからなかった。

「それで、デイヴィッドはあんたによくしてくれたかね?」 しばらく黙っていたミス・ベッツィーが尋ねた。頭の動きはだんだんとおさまって、もう止まっていた。 「あんたたち、うまくやっていたのかね?」

「とても幸せでした。」 母はそう言った。「主人は、私にほんとうによくしてくれました。」

「じゃあ、あんたを甘やかして駄目にしちまったって、そういうことだね?」

「こんな厳しい世の中で、また一人きりで、自分だけが頼りになってみたら、ええ、ほんとうにそうかもしれません。」 母はすすり泣いた。

「ほら、泣くんじゃないよ。」 ミス・ベッツィーが言った。「釣り合いがとれてなかったんだよ、ねえ――もし人間二人の釣り合いがきっちりとれるなんてことがあるとすればだがね――だから、訊いてみたんだけど。あんた、身寄りがないんだっけね?」

「はい。」

「家庭教師してたって?」

「保母兼家庭教師でした。そのお宅に、あの人がやってきたんです。私にとても親切で、ほんとうに気にかけてくれて、そしてとうとうプロポーズしました。私は応じました。それで、結婚したんです。」 母は他愛なく言った。

<当時の「governess」とよばれた女性家庭教師は住み込み。>

「はんっ、なんてこったね。」 暖炉の火にしかめっ面をむけたまま、ミス・ベッツィーがつぶやいた。 「あんた、何かできるのかね?」

「なんでしょう?伯母様。」 母は口ごもった。

「家事とかさ、たとえば。」

「あまりできません。」 母が答えた。 「とても思うようには・・・。でも、主人が教えてくれてましたし――」

(「そんなこと、あの子がよく知ってたもんだね!」) ミス・ベッツィーは括弧つきで言った。

「――それに、もっと何とかなったはずだと思うんです、私一生懸命でしたし、辛抱強く教えてくれましたから、主人が死ぬなんてひどい不幸がなかったら――」 母はここでまた泣き伏してしまい、それ以上話ができなかった。

「ほらほら。」

「――私、家計簿をつけました。毎晩、主人と一緒にちゃんと計算して。」 そう言って母はまた悲しみに襲われ、わっと泣いてしまう。

「ほらほら。 もう泣くんじゃないよ。」

「私たち、そのことで言い争いなんて一度もしませんでした、私の書く3と5が似ていて紛らわしいとか、7と9のしっぽをクルッとはねるのはいけないとか、主人が言ったときは別でしたけど。」 母はまたも悲しみの発作を起こし、泣き崩れた。

「どうかしちまうよ、それにあんたの身体にも私の名付け娘にも、よくないんだからね。しっかりおし! 泣いちゃいけないったら。」

その論は母をなだめるのにある程度役立った。もっとも、気分はますますすぐれなくなっていったのだが。しばらく沈黙が続き、足を炉格子にかけたミス・ベッツィーが時々ふいに「はんっ」と声を出すだけだった。

「そうそう、デイヴィッドは自分のお金を年金に出資していたんだね。」 やがてミス・ベッツィーが口を開いた。 「あんたには、どうしてくれたんだね?」

ちょっと言いにくそうに母が答えた。 「主人は、思いやりがあって、おかげさまでその幾らかを私に残るようにしておいてくれました。」

「いくらだね?」

「年に百五ポンドです。」

「そりゃまあ、最悪よりはね。」

その言葉は状況にぴったりだった。母の様子は最悪になっていた。お茶と蝋燭を持って入ってきたペゴティはすぐに母の様態を見て取り、――充分な照明があったら、ミス・ベッツィーだってもっと早くに気づいていただろうが――、できる限り急いで母を二階の部屋へと運んだ。そうして自分の甥のハム・ペゴティに医者と看護婦を呼びに走らせた。万が一の場合の使い走りとして、母には内緒で数日前から彼を家に置いていたのである。

上記の連合部隊は相方と数分の差で到着し、かなり驚いた。なにしろ、堂々としたなりの見知らぬ婦人が、ボンネットを左腕にくくりつけ、宝石をくるむ綿を耳に詰めて、暖炉の前に座っていたのだ。

ペゴティは何も知らず、母は何も言わなかったから、その婦人は居間にあって全く謎の人物であった。しかも、ポケットに宝石用の綿をいっぱい入れて持っているとか、その綿をそんなふうに耳に突っ込んでいるとか、そういった事実にもかかわらず、その婦人の威厳は損なわれてはいないのである。

二階に行っていた医者はまた降りてきて、努めて礼儀正しくかつ社交的であろうとした。たぶん、この見知らぬ婦人と自分とがこれから数時間にわたって差し向かいで座っていることになると、覚悟を決めたからだろう。

この医者は穏やかな小男で、同性の中でもこの上なくおとなしい部類に属した。部屋に出入りするにも、なるべく場所を取らないようにと、こっそり歩く。ハムレットに出てくる幽霊よりもそっと、そして、もっとゆっくりと。首を一方に傾けているのは、少し謙遜、そして少しご機嫌伺いのつもりなのだ。

まったく無口なことを「犬になげてやる言葉もない」などと言うが、彼の場合それは的はずれだ。彼は狂犬にだって言葉を『なげる』など思いもよらず、ひと言、半言、いや、ほんの言葉のかけらを、そっと『差し出す』くらいのことだったろう。歩くのと同じくしゃべるのもゆっくりだったのだから。だが、そういう場面でも無礼な態度は取らなかっただろうし、短気なことなど、金輪際できたはずがない。

チリップ氏は首を一方に傾げて控えめに大伯母の方を見ると、ちょっと頭を下げ、自分の左耳にそっと触れながら、暗に宝石用の綿のことを指して言った。

「奥様、局所的疼痛で?」

「なんだね?」 綿をコルク栓のように耳から抜き、大伯母が返事をした。

チリップ氏は大伯母のつっけんどんな態度にひどく驚いたので――のちに本人が母に語ったところによれば――正気を失わなかったのは幸運といってよかった。だが、彼はもう一度そっと言った。

「奥様、局所的疼痛で?」

「バカバカしい!」 大伯母はそう答えて、すぐさま耳栓をした。

こうなるとチリップ氏はどうすることもできず、ただ座って、力なく相手を見ているしかなかった。大伯母は座って火を見ていた。やがて彼は二階に呼ばれ、十五分ほどしてまた居間に戻った。

「どうなんだね?」 大伯母は相手に近い方の耳から綿を抜き取った。

「そうでございますね、奥様。」 チリップ氏が答える。 「容態は――容態は緩慢でございます、奥様。」

「バーカバカしーい!」 伯母はその侮辱的な間投詞を引き延ばして発音すると、耳栓を詰めなおした。

実に――まったく――チリップ氏が母に語ったことによれば、彼はほぼショック状態だった。純粋に医学の専門的見地から言って、ショック状態に近かったのである。しかしそれにもかかわらず、二時間近くの間、彼は座って大伯母を見ていた。大伯母は座って火を見ていた。やがて彼はまた呼び出された。そして、しばらく経って、彼は居間に戻ってきた。

「どうなんだね?」 大伯母がまた同じ側の耳から綿を抜き取った。

「そうでございますね、奥様。」 チリップ氏が答える。 「容態は――容態は緩慢でございまして、奥様。」

「ふううーんだ!」 こんなふうに罵声を浴びせられては、チリップ氏も耐えられるものではなかった。まさに自分の精神を破壊せんとするものだったと、あとになって彼は言った。彼は部屋を出て、暗くて、しかも隙間風は吹き抜けるけれど、階段に座っていることにした。そしてまた、彼にお呼びがかかった。

ハム・ペゴティーは国民学校の生徒で、教義問答の成績は抜群だったから、証言者として信頼してよいだろう。彼は、翌日次のように語った。

その一時間後、彼はたまたま居間のドアから中を覗いたところをミス・ベッツィーに見つかった。彼女は落ち着かない様子で行ったり来たりしていたのだが、彼が逃げるまもなく、彼に飛びかかった。

二階からは時々足音や声がして、耳に綿を詰めてもその音は聞こえてしまうのだろうと、その時の状況から彼は思った。つまり、その婦人が彼をつかんで放さず、そうした物音がひときわ大きくなったとき、彼を興奮のはけ口とする生け贄にしたのは明らかだったのだ。

その婦人は彼の襟首をつかまえて休みなく行ったり来たり(まるで彼が阿片チンキを飲み過ぎたみたいに)、そして二階の物音が最高潮に達したときには、彼を揺さぶり、髪をくしゃくしゃにし、彼のシャツがどうなってもおかまいなし、自分の耳と間違えたみたいに『彼の』耳をふさぎ、その他さんざんに彼をもみくちゃにして、ひどい目に遭わせた。

このことは、彼の叔母によっても確認された。甥が解放されたすぐあと、十二時半に見たところ、確かに彼は生まれたての私のように真っ赤になっていたという。

穏やかなチリップ氏は、とりわけこんな時には、悪意を抱くことなどあり得なかった。彼は自由になるとすぐに居間にそっと入ってきて、きわめておとなしく大伯母に言った。

「あの、奥様、まことにおめでとうございます。」

「何がだね?」 大伯母はぴしゃりと言った。

その極端にきつい言い方に、チリップ氏はまたうろたえてしまった。それで彼は、相手をなだめようとちょっと頭を下げ、にっこりして見せた。

「何だね、この人は。何をやってるんだか。」 大伯母が苛々して大声をあげる。 「しゃべれないのかね?」

「奥様、落ち着かれますよう。」 チリップ氏はこのうえなく柔らかい言い方をした。 「今やいかなる心配もございません。落ち着かれますよう。」

大伯母が彼を揺すぶらなかったこと、彼を揺すぶって言うべきことを言わせようとはしなかったことは、その時以来ずっと、奇跡に近いことだと考えられている。大伯母はただ彼に向かって自分の頭をふって見せただけだったが、それでも彼を怖じけさせた。

「そうでございますね、奥様。」 勇気を取り戻せるとすぐに、チリップ氏が続けた。 「まことにおめでとうございます。すっかり終わりましてございます、奥様、しかも良好でございます。」

チリップ氏がこの仰々しい挨拶を述べるのに一生懸命になっていた五分ばかりの間、大伯母は彼をにらみつけていた。

「娘はどう?」 片腕にボンネットをくくりつけたまま、大伯母は腕を組んだ。

「そうでございますね、奥様、まもなくすっかりお元気になられることかと存じます。」 チリップ氏はそう答えた。 「このような心沈む家庭的環境にありまして若い母親に期待できますだけのお元気に、でございます。目下のところ、お会いになっても差し支えはまったくございません、奥様。喜ばれますことでしょう。」

「それで、『娘』は――『娘』の様子は、どうなんだね?」

チリップ氏はさらに首を傾げて、小鳥のように愛想よく大伯母を見た。

「赤ん坊だよ。 どうなんだね?」

「奥様。」チリップ氏が答えた。 「ご存じかと思っておりましたが。男の子でございます。」

大伯母はひと言も言わず、ただ石投げ器のようにボンネットの紐を持って、チリップ氏の頭を狙うようにしてからそれを斜めにかぶり、出ていったきり二度と戻ってこなかった。腹を立てた妖精のように、消えてしまったのだ。あるいは、一般に私にそれを見る資格があるとされていた超自然のものであるかのように。

そう、大伯母は戻ってこなかった。私はバスケットに、母はベッドに横たわっていた。だが、生まれるべきベッツィー・トロットウッド・コパフィールドは永遠に夢と幻の国へ、私がつい今しがた旅してきた広大な世界へ、行ってしまった。

そうして、我々旅人が行き着くこの世の果てを、その人なしに私が生まれることはなかった人の遺骸の上に作られた塚を、我が家の窓の明かりは照らすのだった。



*


Charles Dickens (1812-1860)

Dickens については、Christmas Issue 2000 を参照のこと。


David Copperfield (1850) は、Dickens の作家としての絶頂期に書かれ、彼本人が最も気に入っていると言った作品である。また、作家自身の体験を匿名で取り入れた自伝的要素を持つ作品でもある。

様々な苦難を乗り越えて作家として成功した主人公の回想録という体裁を取っており、それが、多彩な登場人物、様々なパターンの人間関係、笑いと涙と、陰謀とサスペンスにハッピーエンドという、いかにもディケンズらしい筋で展開する。

登場人物のひとり、こりない貧乏紳士 Wilkins Micawber は読者の圧倒的な人気を得て、その名は、「Micawber =楽天家」 「Micawberism =楽天主義」という意味で使われるようになった。

第1章で強烈な印象とともに登場するミス・ベッツィーは、のちに重要な役割を果たすが、訳者にとっては、キリッとして「ハンサム」という形容詞が似合う、魅力的な女性である。(ここではまだただの変人だが。) 

その他、少女時代から理想的女性であるアグネス、階級の階段を上り損ねるエミリ、自虐的でどこか現代的に暗いローザ、主人公の赤ちゃん妻ドーラなど、印象に残る女性キャラクターが登場する。

ミスタ・ディックが揚げる凧のしみじみとした風景、スティアフォースに対する主人公の「あやしいんじゃ?」と思わずにはいられない「憧れ」、ユライア・ヒープの「ここまでやればあっぱれ」な卑しさと悪意。忘れられない男性キャラクターも多い。

一番影が薄いのは主人公なのではないかとさえ思われるほどで、キャラクターの豊富さという意味でも、やはりディケンズの代表作としての貫禄充分ではないだろうか。

ただし、話はなかなか進まないので、お読みになるなら充分に覚悟なさったうえでどうぞ。



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