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除夜の鐘



今年が終わっていく。除夜の鐘が聞こえてきた。山のほうには寺が多い。近い鐘、遠い鐘。高く澄んだ響き、低くて丸い音。いくつも重なって、百八の何倍聞くのだろう。

やりかけの仕事を押しやって、妹にメールを打ちはじめた。今年の初めの目標は忘れていて、今になって思い出した。そんなことだから、せめて来年は・・・。



その年の目標を定めるということは、なんだか胡散臭い。その都度必要なことを決定して実行すればいい。ずっとそう思っていた。だが、もうそれでは済まなくなった。何か決めておかないと、前に進めない。

速くなった時間が、密度の低くなった『私』を透過していく。せめて時に流されているのなら、時間と同じ速さで進んでいられるのに。それは、誰もが『新発見』することだろうけれど。

いつのまにか、ぼんやりと鐘の音を聞いている。重なったり、ひとつずつ聞こえたり、風に流される音もある。こうして、次の音次の音を待つうちに、百八回ぶんの時間などあっけなく終わってしまう。

子供の頃に聞こえた除夜の鐘は、遠くかすかだった。次の音までは、長かった。百八回目は永遠に来ないのではないかと思われた。たぶんそのためだけに起きていたのに、何回か聞いただけで眠ってしまった。百八数える煩悩のほんのいくつかしか関係がないというかのように。

煩悩とは、どうやら、正しい生き方から人をそらす様々の心のことらしい。そうしてみると子供はまだ純真だから――と言えば詩的なのだが。そんなことはない。『不善の心』があっても自覚がなかっただけだし、その前に、寝てしまったのは夜更かしが苦手だったからにすぎない。子供にとっては、時間がより長く感じられもする。

除夜の鐘を聞きながら、終わっていく年のことを考え、新しい年にわずかでも積極的なことを願う。そんな今のほうが、ずっといい。悔やまれることは百八の何倍も聞こえる鐘の音より多いけれど。毎日は釣鐘ほども重いけれど。何もわからないよりは、ずっといい。

せめてそう信じていよう。『時』に置いてきぼりにされる一方では、つらすぎる。

そんなことを思っている間にも、鐘の音はいろんな大晦日のシーンを運んでくる。中学生の頃、プラモデルの箱を開け、これを作りながら年を越すのだと妙な決意をした年があった。白いギプスのことしか思い出せないのは、6年生の冬休みだ。右足を骨折した。松葉杖を使わずに、片脚で飛び跳ねていた。

パソコン画面のこちら側に、目には見えない光景が広がっていく。自分の白い部屋に座っていながら、子供の頃住んだ古い安普請の家にいる。暗緑色の壁、箪笥に囲まれた暗い部屋。くすんだ赤い柄織絨毯。その手触りやほこりっぽい匂い。ギプスの重さ、冷たい足先。

高校の時は、港の船が、0時きっかりに一斉に汽笛を鳴らした。自分がどこか遠いところにいるような錯覚を覚えた。その音は夢よりも幻想的に、今も頭の中に響いてくる。

そうして、ふと気がつくと、また鐘の音を聞いている。

教会の鐘の精はトロッティの親爺に未来を見せた。自分自身の存在意義を否定した彼を懲らしめるために、破滅的な将来を見せた。*

けれど、み仏の鐘の響きは、もっとやわらかい。百八つの煩悩を数えながら、そっと過去を運んでくる。「生きて、きたね。」 悟りなどかなわぬ私に、一つごとに静かに頷くように。

想い出す過去は、愛おしい。心細かった、哀しかったことでも。悔やまれること忘れたいことでさえ、それが今の自分に活きているのなら。今のこともこれから先のことも、それが『過去』になれば、同じように愛おしいだろう。それなら、なぜ今からそう思わないか。

そう思ってみよう。せめて、私を置いてきぼりにする『時』のお世話にならなくても、想い出す『今』が愛おしいものとなるように。

そう思ってみよう。いつか『私』の密度がゼロになり、『時』がなんの抵抗もなく透過してしまう時が来る。せめて、何もしないでその時を待つことのないように。愛おしければ、『今』から逃げたりはしない。



いろんなことを考えながら、けれどごく普通のメールを打って、送信した。送信日時は2004/01/01/00:03。新しい年。除夜の鐘が始まってから、30分たっていた。





*トロッティ: Charles Dickens の『クリスマス・ブックス』のひとつ The Chimes の主人公。貧しくとも善良な老人。男手一つで育てた一人娘メグを生き甲斐にしている。

娘の結婚式を翌日に控えた大晦日のこと。お偉方の心ない言葉から、トロッティは「自分たち貧乏人は生きている価値がない悪人だ」と思い、落ち込んでしまう。

その夜、教会の『鐘』が彼を呼びだし、未来へと送り出す。彼がそこで見たものは、自分の死後に起こったメグの絶望的な不幸であった。『夫』は彼女を捨て、のちに帰ってくるものの、まもなく病死。乳飲み子をかかえて、金も行き場もないメグは、入水自殺をはかる。

全力でそれを止め、「自分たちがよい人間であることを疑ってはならない」ことが身にしみたところで新年の鐘が鳴り響き、トロッティは夢から覚める。

ディケンズの『クリスマス・ブックス』については、Starlight をご覧ください。

December 2000(1)December 2001

 

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