レポート 160901
レポート課題: 小事件
標題: とけた時間


薄明かり。壁を埋め尽くす機械。広い床の中央に置かれた『手術台』。ジョーは目を覚ました。

[そうだ、身体<からだ>の定期チェックが終わったんだ。それにしてもずいぶん静かだな。]

何も聞こえない。何も見えない。眼を開けようとしても、瞼が動かない。

[まだ完全に復帰してないのかな。それにしても・・・。]

ジョーは起きあがろうとしたが、手も足も動かせない。

[どうしたんだろう。]

おそらく、まだチェック作業中で、身体の機能は停止しているのだ。何かのミスで目覚めてしまったに違いない。すぐに博士がなんとかしてくれるだろう。ジョーは一旦はそう思った。

[だけど、ヘンじゃないか?]

脳波は自動測定され、脳の状態はコントロールされているはずだ。目覚めたのがミスなら、放置されることはないだろう。やはりチェックは終了したのだ。ジョーはもう一度起きあがろうとした。

[ダメか。]

今度は加速装置のスイッチを入れてみようとした。

[舌も、動かない!]

ジョーは恐怖にかられた。自分の体が、自分の意思を受け付けない。いや、それよりも、今自分の身体は存在するのか? 自分は脳だけになって、培養液に沈んでいるのではないのか? 叫び出しそうだったが、かろうじてそれを抑えた。というよりも、ただ声が出なかっただけだったのかもしれない。

[そんなはずはない。]

ジョーは冷静になろうとした。脳を取り出す必要も理由もないのだ。自分は今の自分の身体を持っていてこそ、最大の能力を発揮できるのだ。そしてその身体に故障があったわけではない。

[でもNBGなら・・・。]

ジョーは自分の思考を呪った。しかし、止めることはできなかった。定期チェック中、生体脳も人工体も停止している間にやつらの攻撃を受け、自分が奪い去られてしまったとしたら。洗脳され、新しい身体に移し替えられるのではないか。自分の身体には別の脳が組み込まれ・・・。

[洗脳なんて、されてたまるか。]

だが、洗脳に失敗したら、やつらは自分の脳をどうするだろう。あっさりと廃棄処分にするとは思えない。見せしめのために、さらしものにされるのか。外部にセンサーが取り付けられ、それが伝える罵声と嘲笑に耐えなければならないのか。

[まさか・・・。]

否定しても、恐ろしい想像は止まらない。身体がなければ、死ぬこともできない。自分の身体――そうだ、もし拷問を加えられ、その感覚が脳に流し込まれたら。加速中は感覚系の『神経』も自動制御されるから、加速しておけば少なくとも痛みと熱はほとんど感じない。しかし、それができない状態では・・・。

[な、何を考えてるんだ、オレは。]

ジョーは我に返った。しかし、本当に自分はどうなってしまったのか。このまま動けないとしたら。定期チェックの順番は自分が最後だから、次の者がやって来て見つけてくれることは期待できない。1年後まで、誰かが身体にトラブルを起こしでもしない限り、この『手術室』は使用されないのだ。

[そんなはずはない。]

自分の姿が見あたらなければ、みんなが探すだろう。『手術室』のドアサインは、中に人がいることを示したままだ。気づいてくれるに違いない。そう思うと、ジョーは少し落ち着いた。それと同時に、様々な記憶が浮かび上がってきた。

[あの、3つの脳。]

やつらは自ら望んであの姿になったのだろうか。なぜ人間の身体を捨てなければならなかったのだろう。そうしなければ純粋な『悪』になれなかったのだろうか。しかし、そもそも、そうなる必要はあったのか。

[0012。]

あの女の脳は、人間の姿でいる時から残忍だったのだろうか。それとも、あんなふうにならざるを得なかったのだろうか。

[もしフランソワーズが『家』だったら・・・。]

自分を心地よく包み込んでくれるだろう。彼女が『家』になってしまったとしても、自分は彼女を愛するだろう。だが、やはり彼女はあの身体でいてほしい。やわらかな笑顔。頬にふれる細い髪。閉じた瞼の長い睫。ジョーは彼女のやさしい感触を思い出した。

[フランソワーズ?]

一瞬、彼女の亜麻色の髪が目の前に見えたような気がした。だがそれは、瞼のわずかな隙間から入ってくる光だった。瞼は目に見えないほどゆっくりと開こうとしていたのだ。

[よかった。]

身体が失われたのではなかった。それに、ジョーにはわけが解った。加速装置のスイッチをONにすると、身体の動きだけでなく脳の情報処理速度も加速される。どういうわけか、脳だけが加速モードになっているのだ。
加速した脳の側にすれば、加速していない身体の動きは、止まっているかのように遅い。しかし第三者から見れば、今『ジョー』はごく普通に眼を開けて、起きあがろうとしているはずだ。

[しかたがないな。]

待つしかなかった。ジョーの身体は『何時間』もかけて瞼を開けた。もちろん眼球は『動かない』から、見えるのは薄明るい天井、そして消えたライトとモニターカメラだけだ。そのあとはまた『何時間』もの間、瞼は開いたままになる。さらに『かなりの時間』が過ぎてから、右肩がうっすらと台から浮いた。まるで石の像が動こうとしているかのように。

[本当にもと通りになるんだろうか。]

それは新しい恐怖だった。このまま脳だけの加速状態が続くのではないか。事実上身体を動かすこともできず、凍った時間の中に永久に閉じこめられるのではないか。

[そんな孤独には耐えられない・・・。]

ジョーは『手術台』に『貼り付けられた』自分の身体を引きはがそうと、無意識にもがこうとした。しかし、それは何の『変化』ももたらさなかった。

[だれか 助けてくれっ!]



ついにジョーの上半身が起きあがったのは、目覚めてから『1週間後』だった。そして、そこでようやく脳の情報処理速度が通常モードに戻った。凍っていた時間が、急にとけた。

「うわああっ。」

ジョーは叫んだ。『1週間前』に加速装置をONしようとした舌が今ごろ急に動いたから、あるいは自分の身体が意思とは無関係な動きをするから、叫んだのではない。それは、『1週間前』に抑えようとした叫び声のはずだった。
身体コントロール用コンピュータは、ジョーの脳が『1週間』の間に出しておいて忘れた様々な動作命令を、忠実かつ無意味に実行したのだ。

それでも、自分の身体を失う恐怖を思えば、何でもなかった。身動きすらできない孤独に比べれば、ほとんど笑い事だった。

「でも、フランソワーズには見られたくない恰好だったな。」

やっと身体の動きが止まって、ジョーはそう思った。


加速装置は、後期に見られる「時間と重力とをコントロール」していると思われる方式ではなく、初期の「物理的に運動速度を高める」方式を採用。
加速装置のスイッチについても、初期の「奥歯の横についていて舌で押す」方式を採用した。「凍った時間(結晶時間)」では、ジョーはスイッチを「噛んで」いる。




山さん: デカ長、取調中の容疑者ですがね、「脳の加速方法」については本当に何も知らんようです。
デカ長: ふーむ。よし、聞き込みだ。黒幕を突き止めろ。

 

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