MOONLIGHT |
Variation
3 夏の写真館
By Ryo Shimamura
1. 今日も35度を超えそうだ。8月の盆前の、重い感じさえする日ざし。京都郊外の私鉄の駅前でバスから降りると、麻子はUVカットの日傘を広げた。 |
2. その写真館を見つけたのは、昔、下水道工事か何かをさけて、自転車で裏の通りに入っていった時だと思う。 |
3. 思った通り、中は薄暗い。冷房とは別の、ひんやりした感じがする。人の気配はない。 |
4. 「ここでちょっと待っとくれやす、支度しますよってに。」 |
5. 「もう1枚いきますよって。」 |
6. 「さてと、そしたら、写真の方はあさって以降やったら、いつでもどうぞ。朝10時から夜8時まで開けてますよって。」 |
7. 電車はすいていたが、京都の中心部は相変わらず人があふれている。麻子は足早に待ち合わせのホテルのロビーに向かった。大学からの友人、綾美と久しぶりに食事をすることになっている。秋には2人でイギリスに旅行する予定だ。 |
8. そのうちに、話が例の写真館のことになった。 |
9. 2日後の夜7時半頃、麻子はあの駅で電車を降りた。帰りに写真を受け取りに寄るつもりで、その日は珍しく電車で出勤したのだった。クルマで来てもよかったのだが、なんとなく、また歩いてみたかった。 |
10. 「こんばんは。」 |
11. 「あ、ちょっと待って。」 |
12. その年の1月、友人のところへ遊びに行く途中だった。切り通しの道で対向車と行き違うため左に寄せてバックしたら、車体の左後ろがガクッと下がった。 |
13. 「やっぱり、持ち上げた方がいいな。」 |
14. 麻子がエンジンを止めて降りた時には、青年はすでにもう1コの輪止めを回収し、ジャッキをケースにしまっているところだった。木の溝フタは元の位置に戻し、割れた方をその上にきちんと重ねて置いてある。 |
15. 白馬のナイト様。 |
16. 「あれ、ものすごく何度も御礼言われましたけど、」そう言って、青年はまた笑った。 |
17. 2人は土間の椅子にかけた。どっしりと重い木の椅子もテーブルも、少しひんやりして気持ちがよかった。 麻子はナショナルトラストの話を思い出した。電気もない辺鄙なインドの山村とイギリスの領主館とでは、もちろん比べようがないのだが。しかし、失われていくものに対して抱く郷愁には、麻子も共感できた。 |
18. 「そうですね。私も古い建物見るの、好きなんです。ここも。」 |
19. 家ごとの小さな玄関灯と、ぽつりぽつりと設置された街灯の弱々しい蛍光灯。裏通りにそれ以外の明かりはなく、曲がり角の自販機の照明がまぶしいほどに感じられた。 |
20. 窓の外を見たまま、麻子は小さく溜息をついた。 |
21. 日曜の夕方、麻子はクルマに乗って写真を受け取りに行った。角を曲がったら、駐車場に勇次のクルマが見えた。麻子は少し期待した。 |
22. 夕焼けが広がっていた。夕陽を正面に受けて、赤煉瓦が透明感をおびた赤銅色に輝いている。麻子は建物を見上げ、本当にきれいだと思った。 |
23. 「オレのクルマに落書きしないように。」 |
24. まもなく、勇次が戻ってきた。左の手のひらが真っ黒に汚れている。手でガラスをこすったのだ。 |
25. 時を刻む古い時計の音だけが、聞こえる。どっしりとしたマホガニー色のテーブルに、窓の影が伸びている。 |
Variation 3 ・夏の写真館・ THE END |
注 8.ナショナルトラスト(イギリス) 1895年に有志3人によって活動が開始された民間団体。1907年にナショナルトラスト法を成立させている。<美しい、あるいは歴史的に重要な土地や建物を国民の利益のために永久に保存する>ことを目的とする。 たとえばイギリスの田園風景になくてはならないカントリーハウス(壮大な領主屋敷)は、その個人所有者に多大な税と維持費の負担を強いる。経済的理由により、土地が細分化され、開発用に売却されたり、館が取り壊されたりすることもある。しかしトラストが所有権を得ることによって、そのような事態を未然に防ぎ、歴史的建造物や景観を守ることができるのである。 http://www.nationaltrust.org.uk/ 10.ペディメント |