MOONLIGHT

Variation 4 神無月

By Ryo Shimamura


LIST
1.

雨が降らないのは助かるが、居座った猛暑はいっこうに衰えを見せない。慣れているとはいえ、現場は暑い。だが、工事責任者である麻子の頭がクラクラしたのは、そのせいではなかった。

今日の土曜日1日で完了するはずの建方が、部材の到着が遅れて2日目にずれ込んでしまう。できる限り詰めた日程に、すでに10日ほどの遅れが出ているというのに。

麻子はその場で施主に電話を入れ、状況を説明した。それを聞く相手の声はおだやかだったが、当然、断固として2日目の作業は日曜日に行われるよう求められた。

オフィスに戻った彼女はとりあえず冷蔵庫から麦茶を出して飲み、手配にとりかかった。工事の遅れは珍しいことではない。だからといって平気でいられるものではないが、この仕事について3年、関連業者にきつく申し入れるやら、頭を下げて頼むやら、最終的にはなんとかなるようにやってきたのだ。

しかし今回は、いつも以上に遅れが気になった。こわいような気さえした。引き渡し予定日は9月27日。あと4週間は、ぎりぎりの時間だった。

施主の猿田は上品な雰囲気の、30歳代中頃――いや、初めて会った時は聞いた通りそれくらいに見えたのだが、年齢不詳といった感じもする。彼女も知っている大企業の研究所を、自己都合で2ヶ月ほど前に退職したところだという。

子供はなく、別の研究機関に勤める妻とふたり暮らし。麻子より少し年上のはずのその妻は、女子大生ふうでもあり、落ち着いた老貴婦人のようでもあった。

営業の松田によれば、100パーセント自己資金。「だから予算が限られている」と、見積もりの段階で何度も念を押されたそうだ。

麻子の勤める住宅メーカーは、製品ついての評価は高かったが、価格の面でもけっして低いとは言えなかった。どんな人でも、出費は小さいに越したことはない。値切ってもおかしくはないだろう。

「だけど、不思議なんですよ。」 松田は妙な顔をして言った。 「引き込まれるみたいな感じで。」

「なにか、いつも大変な世話になっているから何としてもできる限りのことをしたいと思う、みたいな。初めて会った時から、そんな感じだったですよ。」

だからなのか、松田は信じられないような見積を書いた。さらに驚くべきことに、それがすんなりと正式に通ってしまった。

「催眠術かもよ。」 最初そう言って笑っていた麻子も、実際に会ってみると、彼の言うことが納得できた。

担当業者からの返事を待つ間、麻子はそんなことを思い出していた。幸いすぐに段取りがついたので、施主にその旨を報告し、一息ついた。

その翌日、工場から届いた残りの外壁材が無事に取り付けられ、すぐに屋根の工事も始まった。工程の遅れはこれ以上大きくならずに済みそうだ。

夕方には、上棟の立ち会い確認が予定通りの日に行われることを施主に告げて、松田が嬉しそうな顔で電話を置いた。

「それじゃ、もう一件、いただいて参ります! このぶんだと、また先輩と組ですね。」 そう言って、彼はオフィスのドアを開けながら、課長席に向かってVサインをして見せた。

――よその課長に・・・。

だが、その課長も満足げに笑ってうなずいている。松田は、5社が競合した新築工事の最終提案にまでこぎ着けていた。

 

2.

団地の中でも、里山に近いあたりはまだほとんど更地のままだ。工事中の猿田邸はその奥に、ぽつんと1軒建っている。広い敷地の北から北西にかけては竹藪がせまり、風にさらさらと音を立てていた。

立ち会いの日、約束の時間きっかりに、猿田夫妻がやってきた。真新しいブルーのRV車から降りたふたりは、麻子と松田の挨拶に答えると、足場に囲まれた家を目を細めて見上げた。外壁の石のようなグレーの色合いが、猿田の知的で穏やかなイメージに似合っている。

4人は建物の中に入った。玄関ドアや窓サッシはすでに取り付けられているが、まだ内壁はなく、1階には床もない。立ち上がった基礎が、土間コンクリートを大まかな間取りに区切っている。

「地鎮祭はされなかったんで、これも必要ないかと思ったんですが、いちおう持ってきました。どうされますか?」 松田が大きな紙包みをほどきながら言った。

彼が取り出したのは、上棟祝いの飾り物だった。だが、『地鎮祭』も『上棟式』も昔ほど重要な行事ではなくなっている。今度の場合、施主の希望がなかったので、地鎮祭は行わずに工事に取りかかっていた。上棟の立ち会いも、通常3回に分けて行われる支払いの節目という意味合いが大きい。

「きれいねえ。」 猿田の妻が、目を輝かせて近づいた。

角材を縦長のT字型に組み合わせて紅白の布を巻き、てっぺんには扇と小形のお多福面がついて、そこから紅白の紙垂<しで>が広がっている。横木には長さ60センチほどの五色の布が幅一杯に並んで下がり、縦の柱には「祝上棟」と墨書した奉書紙が、きれいに折り畳んで金銀の水引で結ばれていた。

「ふつうは棟柱の一番上に飾るんですが。」 松田は屋根の真ん中と思われるあたりを指さした。

「はい、そうしてください。――ね?」 嬉しそうに振り向く妻に、猿田は微笑んでうなずいた。

麻子はほっとした気持ちで説明にとりかかった。基礎や鉄骨、壁の構造など、完成すれば目には触れなくなるが、家の性能に大きく関わる部分だ。2人が実際に触れたりのぞき込んだりしながら楽しそうに説明を聞いているので、麻子もやりがいがあった。

1階部分がひと通り済むと、飾り物を手にした松田が、先に作業用仮階段を上っていった。

「気をつけてください。」 麻子は声をかけた。アルミ製の急な仮階段に手すりはなく、しかもかなり揺れる。怖がる人も多いのだが、夫妻は身軽に上っていく。彼女には、その動きが、何か重さのないもののように見えた。

2階の床は、ALC板を敷くところまで工事が済んでいた。鉄骨に支えられた切り妻屋根の裏側が高く見え、実際の面積よりも広々と感じる。

麻子がひと通り説明し終え、二つ三つ質問に答えると、飾り物を持った松田が少し神妙な顔をして進み出た。

「では、これを飾らせていただきます。ここがちょうど真ん中あたりですね。」 そう言うと、積み上げてあった床下地パネルを足がかりにして飛び上がり、梁の上に片手で身体を引き上げる。その動きは格好いいのだが。

「えっと、南に向けますが、どちらが南でしたでしょう?」 鉄骨に腰をかけ、飾り物のひもを結びながら、松田が尋ねた。

――ちょっと、松田君・・・。

麻子より先に、猿田の妻が腕を伸ばして微笑んだ。「こちらですね。 ――ええ、もう少しだけ。」

その向きは方位磁石のように正確だった。確かに配置図を見ていればわかることだが、それにしても。やはりちょっと不思議な人たちだと、彼女は思った。

 

3.

そのあと、麻子が松田を途中で下ろし、一日の仕事を終えて会社を出たのは、夜8時頃だった。久しぶりに雨が来そうだ。大丈夫だとは思いながらも、麻子は少し気になって、丘の上の団地に向かった。

――なんだろう?

猿田邸の工事現場に近づいた麻子は少し手前でクルマを止め、ヘッドライトを消した。窓を開けると、湿った空気が吹き込んでくる。

敷地の向こうには竹藪の闇が壁のように立ち上がり、風に鳴っている。ちょうど雲が風にちぎれ、十六夜の月がのぞいた。そのくっきりとした光の中で竹藪は奥行きを持ち、内部の闇がいっそう暗くなった。

その手前、建物が全体にほんのりと明るい。灯りはついていないのに、大型のアルミサッシから中が見える――いや、壁も屋根も、透けて見えているのだ。

ちょうどあの上棟祝の飾り物のあたりに、男女が『立って』いた。月の光が集まって人の姿になったように。古風な白い衣服の裾が足を覆い隠し、彼らの長い髪とともに、そっとゆらめいている。

それは恐怖の対象となって当然の眺めだった。だが、麻子は不思議な敬愛の気持ちで、ふたりの美しさに見とれていた。

男は鶴と松の扇を手に取り、微笑んだ。お多福の面を頭に飾りながら、女が楽しげに男を見上げている。彼らの神々しく若々しい顔は、初めて見るようでもあり、どこかで見たことがあるようでもあった。

ふたりはしばらく和やかに語らっていたが、やがて、男が五色の布を角柱からはずして、女に手渡した。女はそれを受けとり、優雅な仕草で頭上にかかげた。するとそれは3メートル近い長さとなり、透き通って、屋根をつきぬけてゆるやかにたなびいた。

それを見上げ、顔を見合わせてうなずくと、男は2階の床で、女はいつのまに下りたのか1階で、静かに舞い始めた。

男は扇を持った右手をゆっくりと上げ、下げ、身体を回し、止まっては足を踏み出し、すべるように動く。女は五色の布をなびかせて、男と左右対称に舞っている。

もちろん、1階はまだ床がない。女がいるのは、基礎の20センチほど上、完成すればちょうどフローリングが貼られているはずの平面だった。

何も聞こえない。ざわざわと鳴っているはずの竹藪も、ミュート映像になっている。まるでその静けさそのものが何かの調で、不思議な舞い手はそれに合わせているかのようだ。

どれくらい経ったのか、舞が終わった。男と女はまた棟柱につけた飾りのそばに立ち、2人同時に麻子の方を見た。その穏やかな眼差しが、心をふと持ち上げるようだ。麻子は涙が出そうになった。

瞬きをする間に、ふたりの姿は消えていた。風の音、エンジンの音。虫が鳴いている。建築中の住宅は、月明かりの下で、ごく普通にそこに建っていた。

麻子はクルマの向きを変えて、ヘッドライトで敷地と建物を照らしてみた。見える範囲には誰もいない。敷地内に放置された物もない。

しばらく考えてから、彼女はクルマを降りた。テールゲートを開けて大型のライトを取り出すと、家をひと回りした。何も変わったことはない。窓も玄関も、ちゃんと施錠されている。玄関の鍵は、昼間松田と確認し、会社に戻したのだ。

――とりあえず、大丈夫よね。

走りながら、麻子はさっき見た光景を思い出していた。『慈愛に満ちた』というのはあんな表情をいうのだと、彼女は思った。

――でも、よくあそこから・・・。

見えたというより、感じたという方が正確かもしれない。それとも、不思議は不思議で説明などつかないのかもしれない。

ただ、はっきりとしていることが1つあった。それは、さっき涙が出そうになったときに、「自分はこの仕事がほんとうに好きなのだ」と、心から思ったということだった。

 

4.

「どうしてクルマから降りたりしたんです?」 翌朝、廊下に立ち止まり、ファイルを持った手をそのまま止めて、松田がいつになく真剣な表情になった。

それを鑑賞するように眺めて、麻子がわかり切ったことを聞く。 「どうしてって、どうして?」

「危険じゃないですか、何者か潜んでいたら。お、襲われでもしたら――先輩っ、真面目に言ってるんですよ、僕は。」

「はい、ありがと。でも、そんな感じなかったのよね、全然。」

「おおっぴらに出現してるわけないじゃないですか、そういうヤツが。だいたい、何かヘンだったから、見てみたわけでしょう?先輩。」

「じゃあ、松田君だったら、そのまま帰ってくる?」

「そりゃ、やっぱり確かめて・・・。ですが、僕は男ですからですね、当然。危険は男女機会均等じゃないです。仕事の上では同じでいいかもしれないけど、でも、男と女は力だって違うんですから。もし、その、力ずくで――。」 麻子が軽く指さすようにしたので、松田は言葉を止めた。

「じゃあ、やっぱり危険なわけ。今後、同乗禁止ね。免停あと1ヶ月、自転車を活用のこと。」

「あああ〜っ、まっとうな仕事人<にん>に対してそれはあんまりです。そんな人様に危害を加えるようなこと、僕は断じていたしません!」

「どうしてわかるのよ。」

「ですから、僕は・・・。」

「とにかく、心配してくれてありがとう。今度から気をつけるから。あ、ほら、急いで。南部展示場の応援に出るんでしょ? 自転車で。」

「わああ〜っ。」

大げさにあわてふためいて、松田が廊下を走っていった。笑って見送っていた麻子も、デスクに戻った。

――ほんと『いいヤツ』なんだ、誰にでも、ね。

麻子は営業と設計を一通り回って、3年前から今の施工管理に移ったから、2人が同じ部署になったことはない。しかし3期上で出身大学が同じだということもあって、松田は彼女を「先輩」と呼んでいる。

入社5年目、営業成績は良好、平均を大幅に上回る容姿と人当たりの良さ。若い女子社員が放っておくはずのない『優良物件』だと、少なくとも彼女は思うのだが。

――まあ、とにかく。

一生懸命で真面目、それでいてどこか楽しんでいるような仕事ぶりは、見ている自分も元気になれる。

例の最終提案の運命は今夜中に決まるはずだ。松田が契約を勝ち取って来た場合のことを考えながら、麻子は壁のスケジュールボードに目をやった。

 

5.

猿田邸の工事は順調に進んだ。グリーンの瓦屋根に発電パネルを組み込み、足場に張った社名入りシートの内側で、建物の外見は完成予想図とほぼ同じになっている。

ひと通り様子を見たところに、石山建設の社長が現れた。この家の建築を請け負った、いわば元締めで、その配下の業者がそれぞれ担当の工事を行っている。

「おはようございます、本田さん、ちょうど電話さしてもらお思とったんですわ。」

「おはようございます。 それで、どうでしょう、この調子だと、なんとかいけそうに見えますけど。」

「う〜ん、昨日も考えてましたんやけど、ぎりぎりや思います。でけんことはない、せやけど・・・。」

社長の言いたいことは麻子にもわかる。急いだあまり不備があっては、やり直しに時間がかかる。作業人数を増やすのにも限度がある。しかし、9月中に入居できることが契約の条件だったのだ。そうでなければ、もともと工期の短い他メーカーが選ばれていただろう。

だがいずれにせよ、その日の夕方、今後の日程が正式に決まるはずだった。いくら彼女がひとりであせっても、どうしようもないことでもあった。

当面の打ち合わせを終えて、麻子は次の現場に向かうことにした。松田があの時の予告通り契約を獲得し、そこの基礎工事が始まろうとしていた。

クルマのドアを開ける前に、麻子はしばらくあの上棟祝いの飾り物があるあたりを見上げていた。あの舞を見てから、いつもそうしてしまう。暗い屋根裏。色のない空間で、誰の目にも触れずに在りつづける極彩色の飾り。それは、家が完成したときには『夢』になってしまうのかもしれない。

しかし、夕方にはそんな気分はどこかにぶっ飛び、彼女は溜息をついた。松田は床にしゃがみ込んだ。彼女の報告を検討した結果、建物引き渡しを10月6日とする工期の延長を願い出ることが決定された。

「『9月中に入居していただけます』なんて、僕が・・・。」

「松田君ひとりで決めたわけじゃないんだから。工事の方も考えたんだし、上だって、それでいけると判断したからOK出したのよ。」

設計で倒れる者が出て最終図面が遅れたとか、ふたつ前の基礎工事の遅れが玉突きになってきたとか、それで工事の開始まで10日以上あいてしまったのは、誰か1人が悪いというようなものではない。

「そりゃ残念だけど、でも、土壇場で間に合わなかったら、申し訳ないでは済まされないのよ。」 その言葉は、がっかりしている自分に言っているようでもあった。

「そう――ですよね。」 松田が立ち上がった。 「とにかく、ご在宅確認して、すぐに行ってきます。」

猿田には、どうしても9月中に引っ越しを済ませたい理由があるらしかった。いったい、どうなるのだろう。

そう思うと彼女の仕事ははかどらず、ただ待っているのと大して違わない。そのうちに配達弁当が届いた。だが、誰かがいれてくれたお茶を飲んだだけで、食べられない。

「本田君、心配しても、なるようにしかならないんだよ。」 課長がしみじみと言った。

その時、電話が鳴った。麻子が受話器を取った。

「あ、先輩、大丈夫でした。ご承諾いただけました。じゃあ、僕、次のお約束がありますから。」 音質のよくない、松田の携帯からだった。

「お聞き入れいただけました。なるように、なったみたいです。」 麻子は課長に告げた。それから、まるで山姥のように『残業めし』を平らげて、残りの仕事もあっという間に片づけた。

 

6.

翌日、水曜日は『定休日』で、麻子は散歩に出かけることにした。お馴染みの峠道も、通勤時間帯をはずれると、気持ちのいいドライブコースだ。

峠を少し下ったところで林道に入ると、すぐに空き地がある。周囲の樹木は長く枝を差しのばし、夏でも涼しい。麻子は木陰にクルマを止めて、ドアを開けた。風が雑木林を渡ってくる。

休日にはハイカーのクルマで一杯になる空き地も、その日の先客は2台だけだった。その1台は猿田のと同じRVで、もう1台の高級車は他県ナンバーだ。

空き地を横切り、林の小道に入りかけたとき、茂みに落ちているゴミが彼女の目にとまった。弁当容器が袋からはみ出して、残飯が散乱している。さらに、その反対側には、炊飯器とオーブントースターとテレビが捨ててあった。

がっかりする眺めだが、見なかったことにして、麻子は雑木林に入っていった。

まだ青い栗のイガ、紫色のヤマブドウ。明るい日陰に木漏れ日が落ちてくる。少し歩いたあたりで、中高年のグループがやって来た。麻子は先を譲るために道の外へ出た。彼女に挨拶をして、彼らは追い越していった。

最後の1人が通り過ぎ、ふと気づくと、近くで話し声がする。振り向いた木立の中には、見たことのない祠があった。その前に『人』が2人立っている。一方は、長い髪の――あの夜、舞を舞っていた男だった。もう一方の男は髪を両脇で結っており、顔立ちも違うが、やはり美しい。どちらも、白い衣服ごと透き通るようだ。

なにか空気まで違うように感じられ、彼女はあたりを見回した。2、3歩のところにあるはずの小道は消えていた。まだ見えているはずのハイカーたちの背中と一緒に。

「しかし、今年世話役のおまえが来ないでは・・・。」 髪を結った男が気むずかしい顔をした。

「出雲、あいかわらずの生真面目だな。7日までは支度だけだ。その間、先に妻を遣ろう。あれはいつも見ておるゆえ、よく心得ておる。儂は7日の夜に飛んで参る。それでよしとせんか。」

「まあ、よかろう。考えてみれば、おまえのことだ、たとえ許さぬと言うても無駄というもの。この上は支度に差し支えのなきよう――何者か、そこにおるのは。」

その男はまっすぐ麻子の方を向いて、厳しい顔に、一瞬、訝るような表情を見せた。麻子は反射的に頭を下げたが、何と返事していいのかわからない。

舞を舞っていた男が、彼女を見るとやわらかく微笑み、相手の男に言った。

「その女は、儂が心をかける生業に携わる者。しかも、儂らの館造りを指図する者だ。儂に免じて、咎んでくれ。」

「ああ。」

「ついでに、そこの小者もな。」

そう言って顔を向けたあたり、麻子の斜め後ろに、精悍な若者が姿を現した。髪も服も白いその若者は、その場で膝をつき、かしこまった。

「これは、邪なものから主を守るために、いつも通り結界をはっておっただけ。その力が少しばかり強うて、それでこちらが気づくのが遅れたからというて、これのせいではない。」

若者は深く頭を下げた。

「わかった。おまえのちゃっかりにはかなわん。まったく、相変わらず人間の味方であるな。」

「では、よろしく頼む。」 舞を舞っていた男がにっこりと笑って礼をした。出雲と呼ばれた男は、真面目な面持ちでそれに応じると、姿を消した。

「さて。」 男は若者の方を向いた。「なかなかの力をもっておるな。今日は2度目ゆえすぐ気づいたが、遊びに興じておった時には・・・。」

男が楽しいことを思い出すように言った。若者は、かしこまったまま聞いている。

「なに、気にすることはない。不都合があれば先に知らせておる。あの夜おまえの主に儂らが見えたのは、そういう『時』だったのだ。これからも、その力で守りつづけよ。」

それを聞くと若者はまた深く頭を下げ、そして、消えた。

「あれは、物や道具に宿る――ああ、そなたの、あの白いクルマの精といえばわかるか。儂らのような神ではないが、守る『力』を持っておる。これからも大切にするとよい。」

麻子は当たり前のことを見聞きしているような気がしていた。男は話を続けた。

「儂は、建築に携わる者たちに祀られてきたものだ。だが時代が変わり『神』の在り方が変わり、今では、1つの建物を建てようとする者たちの共通意識として存在しておる。」

「共通の・・・。」

「そうだ。心ある者ならば誰しも、工事の安全と人の無事、申し分ない完成を願うであろう。また、自分の力を存分に出し、技の向上をと望むであろう。それぞれが様々に願いはするが、見上げるところはひとつ。それが儂なのだ。」

麻子には実感できることだった。ひとりひとりのそうした思いがひとつになって工程を進め、作業の安全にもつながっていくはずだ。

男が麻子の顔を見て、微笑んだ。

「だが、儂らの舞を見た人間は、近年ではそなたただ1人であろうな。」

「申し訳ありません、つい見とれてしまいました。」

「いや、謝ることではない。ではそろそろ行くとしよう。」

「――あ、あの。」

「何か?」

「なぜ、私どもに?」 ――『館造り』と言っていた。では、・・・。

「見どころがあったからだ。それに――、」男は愉快そうに笑った。「値切りやすかった。」

麻子があっけにとられている間に、男は消えた。あたりを見回してみたが、あの白い若者の姿も見えなかった。

「声が聞けたらよかったのに。」 そう思いながら見上げると、木漏れ日がまぶしい。手をかざして、麻子は目を閉じた。

 

7.

目を開けて、麻子は自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。いつの間にか居眠りしたのだろう。木陰が少し移動して、フロントガラスに半分陽が射している。車内は暑くなりかけていた。

先にいた2台は、いなくなっていた。ドアを開けると、風が雑木林を越えてくる。麻子は林の小道に入りかけ、茂みにゴミが捨ててあるのに目をとめた。弁当容器がコンビニの袋からはみ出して、残飯が散乱している。

そういうことをする者にむかつきはするけれど、だからといって片づけるわけでもない自分も――。

そこまできて、麻子の頭に軽い目眩のような感覚が広がった。さっき、見たのだ。

――まさか。こんなゴミなんて、どこにでも・・・。

それなら、その茂みの向こう側には炊飯器とオーブントースターとテレビがあることを、なぜ自分は知っているのだろう。前回来たときにはなかったのに。

不法投棄物を確かめるまでもなかった。ふと見ると、パンツの膝にヌスビトハギの実がくっついている。確かに、一度クルマから降りているのだ。そして、雑木林の中で、あの夜の不思議の続編を見た――。

麻子は大きく溜息をついた。どうせなら、夢や幻ではなくて現実であってほしい。ほんとうに素敵だったのだから。

あんなふうに建築の神様がいて、自分を見ていて、認めてくれるなら。自分たちの建てる家を祝福してくれるなら。好きで選んだ仕事だが、それ以上に、これからもずっとやっていける。たとえ悩んでも、腹が立っても、悔しくても。いつも顔を上げて。

頭の上の細やかな枝が、さらさらと揺れている。風と一緒に、透き通った羽根のトンボが空に消えていった。

――だけど、猿田さん・・・

知的で、繊細そうで、穏やか。俗世間と無縁の感じは、研究者だからか。もし霊的存在というものがあって、それが人間として社会に紛れているなら、猿田の雰囲気はぴったりだ。同じく研究職にある夫人の、どこかに少女らしさを残しながら威厳があって優雅なところも。

工事の遅れに感じるいつも以上の申し訳なさも、以前松田が言っていた「世話になっているような気持ち」も、相手がそういう存在だとすれば。それを心が感じ取ったのだとすれば。

――でも、『お客様のプライバシー』だから。

自分の思いつきに麻子はくすっと笑ったが、すぐに気がついた。

――お詫びと、御礼を言うんだった。

だが、しかたがない。彼女は振り返って、自分のクルマを眺めた。フロントガラスが、ひらめく緑と流れる雲とを映している。

大型のエアロバンパーをつけたC83Aの顔は、麻子のお気に入りだった。精悍で、ちょっと生意気そうで。さっきの『精』は、ぴったりの雰囲気だ。

それにしても、一瞬見えたその顔は、どこかで見たことがあるような気がした。誰だったのだろう。誰に似ていたのだろう。何かの主人公なのか、誰かの若い頃なのか。気のせいなのか。

どうしても思い出せなかったが、思い出す必要もない。ただ、あの『白い若者』が護ってくれていると思えば、ロマンチックな気持ちになれるのだから。

「さあ、とにかく。」 麻子は声に出して言いながら空を見上げた。それから空き地を横切り、クルマのドアを開けた。

 

8.

「先輩、なんか、すごくいい仕事でしたね。」

「松田君もそう思う? どうしてかな。」

「最初の予定より遅れてしまったのに・・・。でも、家造りの神様みたいのがいて、『よしっ、これからもがんばれ』って言ってもらえた、みたいな。」

――え?

麻子は助手席に目をやった。松田も何か見たのだろうかと思ったが、それを訊けば、話さなくてはならなくなる。

「そう、元気出るよね。あ、猿田さん、あしたお引っ越し。」

「独りでされるそうです、奥さんが1日からお留守で。なんか世界会議の準備委員だって、すごいですね。」

10月6日、無事に猿田邸の建物引き渡しが済んだ。ふたりはその足で別の現場に向かうところだった。リアシートには、上棟祝の飾り物が紙に包んで置いてある。

「他から職人2人ほど『拉致』してきましてん。」 「それ、次のところでもお願いしますね。」――工事中、現場でそんなやりとりをしながら、麻子は心の中で言葉以上に感謝していた。彼らが自分のために無理を聞いてくれるのではないことは、わかっていても。

そうして、いつものように家が完成する。夢が、利用可能な現実となる。その瞬間は、何度経験しても不思議な感じがした。安堵と、寂しさと――涙の出そうな気持ちがみんなひとつになって、空に吸い込まれていくような。今回は、特にそうだった。

「今度は、余裕のスケジュールでいけますから。」 やはり松田は工期のことを気にしているらしい。黙っている彼女を気遣うように言った。

「ちゃんとお引き渡しできたんだから・・・。完成後の見学会ができなかったのは、残念だけどね。」

「ほんとに、いいプランでしたからね。でも、今度のも自信作ですから。」 もちろん、松田ひとりの『自信作』ではない。建築作業だけでなく、提案をするのも、団体戦だ。

「それで、ひとつ、僕からオリジナルのご提案が。」 松田はフロアに置いた書類鞄を足でさりげなく固定しながら言った。団地のある丘から郊外を抜けて、曲がりくねった峠道にさしかかっていた。

「提案?」

「これから、『麻子さん』って呼ばせていただきたいんですけど。」

「なあに?それ。」

「だから、僕からのご提案です。今夜ご案内いたしますお食事と合わせてご検討のうえ、ぜひご採用ください。」

「それって、いわゆる『危険』の入り口なんじゃないの?」 麻子が独り言のように言った。

「なんです?」

「『女王様とお呼び』って言ったら、どうする?」

「はあ。呼ぶだけなら、別にかまいませんけど。」

「・・・、ご自由に。」

「はい、ご採用ありがとうございます。で、それでですね、そうすると、僕がこれからずっと、せ・・、いえ、女王様をお護りすることになりますので、よろしくお願いします。」

「抱き合わせの不当販売だ。」 麻子が笑いながら小声で言った。

「だ、抱き・・・、でもいきなりそこまで――あああ〜っ、ちゃんと前見てください先輩!じゃなくて女王様!」

「おだまり!」

やがて峠を越え、林道の入り口を過ぎた。さすがにこのあたりには秋の気配がする。

――笑ってるかな、聞いてるとしたら。

麻子は、『クルマの精』が片手片膝を地面につき、顔を伏せたまま懸命に笑いをこらえている姿を思い浮かべた。

――ずっと、護ってくれるんだ?

麻子は横目で助手席<となり>を見た。

「ずっと、です。」 松田がふと真面目な表情でつぶやいた。

同時に、『白い若者』が真剣な顔を上げる。それは、いま助手席でつぶやいたヤツと同じ顔だった。一瞬の映像が、記憶のように麻子の心を通り抜けていった。

なだらかな下りの直線から、道は急に大きく曲がる。タコメーターの針とエンジン音が跳ね上がる。まるで、嬉しいみたいに。

コーナーを駆け抜けるたびに、上棟祝いの飾り物がシートをすべって、サラサラとやさしい音をたてていた。

 

神無月

THE END

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このストーリーは架空の物語であり、実在の個人または団体とは一切関係ありません。


よけいなお世話

Variation 4 をお届けいたしました。今回の麻子とC83Aは、いかがでしたでしょうか。松田君の名前はもちろん勇次(ユージ)、ほとんどレギュラー化しております。今回の年齢設定は、麻子が29-30才、松田君は27-28才(一浪している)です。

猿田の家の屋根にさりげなく太陽光発電パネルを載せていますが、彼のそれらしい雰囲気を出すためです。一方、実はC83Aの車齢を5年としたかったのです。しかし、それではアリバイ(?)がぎりぎり成立するかどうか。それで、車齢については言及するのをやめました。

現実には、「C83Aが車齢5年」であった頃は、(それがフルチェンジ直前モデルだったとしても、) 太陽光発電システムはやっと実用化され、普及が目指され始めたところだったはずです。とても高価で、施工例もまだ少なく、さりげなくないのです。
(その後発電能力も大幅に向上、低価格化も進みました。ついでに、設置に対する補助金の額も低くなり、隔世の感があります。)

なお、珍しく麻子の仕事が具体的に出てきましたが、もとよりこのセクションの目的は「現実と空想の境目」的なファンタジーを提供することにあます。ましてや、読者の多くは、「はた目には強気で仕事をしていても、多種多様の『ばかやろ〜!』的事象に涙すること」が身にしみておいでの皆様でありましょうから、わざわざその種のことをストーリーにして念押しするなど。

つらいことイヤなことは、しばし横に置いておきたい。普段それと向き合っているからこそ、たまにはご遠慮申し上げたい。そして、心のどこかでは、頑張ったらご褒美がほしい。

そういうわけで、皆様には麻子と一緒に不思議な舞を見つめ、空を見上げ、峠を駆け抜けて、そしてちょっとロマンチックな気持ちになっていただければ、幸いです。



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巻末付録


Variation 4.10 ・ 哀愁の松田君



おにぎりをきまり悪そうにかじりながら、麻子はお茶の湯気でだんだん曇ってくるフロントガラスの向こうを見ていた。松田がエンジンをかけ、エアコンのスイッチを入れた。視界がクリアになって、けむる湖と、ガラスに落ちてくる雨が、また見えるようになった。

湖畔の『道の駅』は「建物内飲食物持ち込み禁止」で、外のベンチで食べるわけにもいかず、平日でガラ空きの駐車場に居座ることになってしまった。ひとりだけ食べるのは気が引けたが、この際、早く食べてしまうしかなかった。

「あわてなくて、いいですよ。」 嬉しそうな顔で、松田が言った。

――だけど、こんなとき見守っていてなんか、ほしくない。

初めて『お食事』に行ったとき、松田はほとんど料理に手をつけなかった。夜景が見渡せるホテル最上階のレストランで、面白い話をして、彼女が笑ったり食べたりするのに満足そうにしているだけだった。

2度目に誘われたときは、麻子の提案でブッフェスタイルのディナーに行った。だが、1人分5500円も出したのに、彼はジュースと水を飲んだだけだった。

「松田君、大丈夫なの?」 さすがに2回目となれば、麻子も心配を通り越してヘンに思った。松田は細身だが均整が取れていて、背は高い方だ。それだけの身体を維持するにはどれだけのカロリーが必要か。

――ダイエット中ってわけ、ないよね。

「麻子さん、遠慮しないで、好きなだけ食べていいですよ。」 その時もやっぱり嬉しそうな顔で、冗談だかなんだかわからないことを言った。

そんなことがあって、麻子は『お食事』はやめることにした。

どこかへ行こうと、水曜日の今日は初めて松田がクルマで迎えに来てくれた。彼女は朝食が食べられず、その代わり10時頃に何か食べないと、目が回ってしまう。いつもは、現場回りの車中で適当に食べている。それで、お茶とおにぎりを持ってきたのだ。

松田は普段は電車で通勤して、営業車を使っている。麻子が彼のクルマに乗るのは初めてだった。 C83A と同世代の VR-4 の車内はきれいに掃除されていて、タバコのにおいもしない。灰皿には小銭が入っていたところを見ると、ほんとうに普段から吸わないらしい。

甘いにおいがしたのは、オレンジジュースの空き缶がカップホルダーに立てたままになっていたせいだ。もしその缶に口紅がついていたとしたら、麻子はすぐに降りてしまっていただろう。彼女が小形の保温ポットを出すのを見ると、彼はその缶を取り、つぶして後席の足元に置いた。

頭がよくて、いろんなことを知っていて、話が面白い。真面目で、よく気がつく。仕事ができる。それに、さらさらとした栗色の髪が片目にかかっていたりすると、就職先を間違えたんじゃないかと、誰でも思わずにはいられないだろう。だが、松田は、営業課長のいう『まれに見る人材』つまりけったいなヤツでもあった。

松田の髪はもともと栗色で、就職活動の時には黒く染めていたのだという。入社時はよかったのだが、2ヶ月3ヶ月と経つうちに、てっぺんが栗色の『カッパ皿』になってきた。ついに『課長命令』で全部栗色にした顛末は、支社の伝説になっている。

それから、一時は『フトン屋』の異名を取ったこともある。仕事が忙しく、帰宅があまりに遅くなるというので、自分のクルマにフトンを載せておいて会議室に寝泊まりしていたのだ。それはまもなく課長に知られるところとなり、禁止された。

おにぎり1コをようやく食べ終わり、麻子はお茶を飲みながら、そっと彼の方をうかがった。退屈した様子も見せずに、フロントガラスの向こうを眺めている。

――そういえば、休みなのにスーツにネクタイ?

松田がとっかえひっかえ着てくるスーツはどれもみんな濃いグレーで、このVR-4 と同じ色だった。その姿で生まれてきたかのように似合っていたから、それはそれでよかったのだが。

――ダークグレーが好きなんだ。

『クルマの精』という言葉を頭から追い出すために、麻子はそれで納得しようとした。『不思議』もいい加減にしておかないといけないと、自分でも思った。

しかし、あの時見た『精』が松田とそっくりだったのは自分の潜在意識のなせるワザだったと判断するより、もしかしたら松田は何か不思議な存在なのかもしれないと空想する方が、楽しいと思う。

そう思うこと自体がかなりアブナイのだと、これもわかってはいても、頭の中にどんどん不思議が広がっていく。猿田邸のこと。雑木林の祠。白いクルマの『精』が白い服とすれば、ダークグレーのクルマなら・・・。

「松田君って、人間なのかな?」 麻子は無意識に声に出してしまっていた。彼女にしてみればずっと頭の中を回っていた考えの結果出てしまった言葉だが、相手にとってはとんでもない問いだったはずだ。まるで編集ビデオの継ぎ目みたいに、車内の空気が一瞬ずれた。

一呼吸おいて、少しうつむき加減に、真面目な声で松田が言った。 「あの、麻子さん、もし僕が人間じゃなくて、サイボーグとか人工生命体だとか、そういうものだったら、イヤですか?」

――そんな、ホンモノみたいな言い方・・・。

「そうね、サイボーグなら人間でしょ、べつにかまわない。人間の本体は脳だから。」

究極的に、人間は精神的な中身だ。麻子の知る限り松田の中身は合格で、その上この姿形をしているなら、身体の素材が違ったところで、イヤだと思う理由があるとは思えない。

「人工生命体ってのは、微妙ね。性格とか考え方とか、そういう肝心なところが、設計した人の『思想』の産物だとすると。でも、深く考えなければいいかも。」

――ひと昔前の空想科学小説研究会だ・・・。

松田が、少し明るい声で言った。 「じゃあ、たとえば正体が巨大ゴキブリみたいな形した、宇宙生命体だったら、どうです?」

――スリッパで叩かれたいわけ?

「ずっと正体を出さないで、一生人間の姿でいてくれたら、人間と同じじゃない。」

口にはしなかったが、あとは愛情の問題だと麻子は思った。そのほか、相手がなんであっても、たとえばあの猿田のように(いや、そうと決まったわけではないが)、『神様』が人間のフリをしているのであっても。たとえ『クルマの精』であっても。

「だけど。」 ふと心のガードがはずれ、水底を離れたメタンの泡みたいに、麻子の精神
<こころ>の奥にあったひとつの塊が浮かび上がって、はじけた。それは、不思議でも空想でもなく、現実の不安だった。

「だけど、たぶん、そういうことじゃなくて。今私と一緒にいるのは、私の『思い込み』とか、そういうものじゃないかって・・・。」

松田勇次という人間は実在しても、自分が甘い想いを抱いていると気づいた相手は、その人間の周りに自分が作り上げた幻影ではないのか。あの時彼が「護る」と言ったのは、自分の受け取った意味と違ったのではないか。

「うまく言えないんだけど、そう、なんてことないことに私だけ喜んでる、勘違いじゃないのかな、って・・・。そういうことって、ありそうだから。」

2人を包む雨の音が、大きくなっていた。フロントガラスを流れ落ちる雨で、けむった湖ももう見えない。

「・・・そういうふうに・・・。」 そうつぶやいた松田の横顔は、まるで、『機械』呼ばわりされたサイボーグだった。いくらさっきのやりとりが頭に残っているとしても、こんな場面で子供の頃見たアニメを思い出す自分に、麻子はあきれていた。

「僕は、ずっと、本田さんにあこがれてました。初めて見たときから、きれいで、やさしくて、かっこよく仕事して――だから、追いつこうと思って必死で・・・。それで、やっと・・・。」

どうにか聞こえる声でそこまで言うと、松田はドアに手をかけた。 「電車で帰ります。クルマは明日会社に置いといてください。」

麻子が何も言えないでいるうちに、彼は雨の中に立ってドアを閉めた。

歩けば駅まで30分はかかる。 「どうしよう・・・。」 麻子は泣きそうになって、ガラスの水滴越しに彼の後ろ姿を見ていたが、心を決めた。靴を脱いで運転席に移り、また靴を履いた。

シート調節のために踏んだクラッチが、自分のより、ものすごく重い。

――ぜったいに、サイボーグだ。

麻子は気合いを入れてバックし、クルマの向きを変えた。松田には駐車場を出るまでに追いついた。すこし手前の左側で止まって窓を開け、大声を出す。 「ちょっと待ってよ!」

松田は一瞬足を止め、振り向きかけて、また歩き出した。

「待ちなさいったら! 待ってくれないと、轢くわよ!」 さすがに、今度は立ち止まった。あっけにとられている彼の横まで進んで止まり、麻子が言った。 「乗って。」

迷っているような彼に、彼女はさらに言った。 「乗らなかったら、ここで泣いてやるんだから。」

少し笑って、松田が後ろのドアを開けて、びしょぬれのまま乗り込んだ。 「タオル、ないんです。」

――うしろ?

当然助手席に乗るものと思っていたのに。麻子はハンカチを出しながら振り向いた。

「指定席ぬらしちゃ困りますから。せっかくですけど、もう一度移動してください。」 上着を脱ぎながら、松田が言った。

「でも、さすが『巴御前』ですねえ、さっきの気迫。僕は、泣かれるくらいなら轢かれる方がいいです。――あ、あの、麻子さん、ちゃんと乗ったんですから、泣かなくても・・・。」

『巴御前』――お馴染み石山建設の社長が麻子につけたあだ名だった。謡曲『巴』はこのあたりの『ご当地もの』だ。

しばらく黙っていた松田が、静かに話し始めた。

「前から思ってたんです。麻子さんって、ずっと変わらなくて、ちょっと不思議で。僕、麻子さんがたとえ何か――」 そこまで言いかけたとき、駐車場を出るクルマが、よけて通っていった。 「あ、ほら、ここに停まってると邪魔ですから。」 

麻子はまた靴を脱ぎ、松田はいったん外に出て、シートにおさまった。

「カゼひかないでね。」

「大丈夫です。」 彼は国道に出ると、もと来た方に向かって走り出した。

麻子は松田の横顔をそっと見ながら思った。たぶん、彼はこれから自分をマンションの前まできっちりと送り届け、あのアニメのヒーローのようにやさしい目をして、走り去っていく。それは、嬉しくなってしまうくらい似合うシーンだった。

麻子はあわててワイパーの向こうに視線を移した。空が、明るくなってきそうだった。



哀愁の松田君

THE END

よけいなお世話

VR−4: ギャランのグレードの一つ。

あのアニメ: 『サイボーグ009』、1979-80。

巴御前: 平安末期〜鎌倉初期。源義仲(木曾義仲)の側室。美しい上に武芸にも秀で、紫の鎧に身を包んで馬を乗りこなし、長刀をふるって戦場を駆け回った。義仲の死後、敵方に捕らえられるが打ち首を免れて、恩人和田義盛の妻となり、晩年には出家したという。 『強い女』の代名詞。

謡曲『巴』: 木曽からやって来た旅の僧が江州粟津の原(琵琶湖畔、現滋賀県大津市内)で休んでいると、巴御前の霊が現れ、義仲の最後を語って聞かせて、自分一人だけ生き延びた後ろめたさの執心を弔ってほしいと頼む。

戦に敗れ、主人義仲を守ってこの地に落ちてきたが、義仲は「女だから(生き延びよ)」と巴がともに自害するのを許さない。やがてやってきた追っ手を巴は切り防ぐ。 「いで一戦(ひといくさ)嬉しやと 巴少しも騒がずわざと敵(かたき)を近くなさんと・・・」。 その間に、義仲は自害。巴は泣く泣く言いつけ通りに形見の小袖と守り刀を持ち、鎧を脱いで木曽へと逃げるのだった。

邪魔: 歩道の形状や配置と駐車ゾーンの取り方にもよるが、がら空きの駐車場なので、ほとんど邪魔じゃない。なぜ松田くんはこんなことを言ったのか、想像してみてください。


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