供 花
隣家の犬が、死んだ。
光が春の明るさになり、それでも雪の舞う日。旅の荷物をクルマから下ろし、玄関の前。人ひとり通れる通路を隔て、低いフェンスの向こう側に、空白の気配があった。
コンクリートのテラス。見慣れた犬小屋が、なくなっている。フェンスの基部には、キャンディー色のスイートピーが2本。それが、空白の気配の理由。
柴犬の仔が隣家にやってきたのは、ずっと昔だった。両手のひらに乗る、あたたかくて、やわらかい重さ。子供の頃を思い出す、日向のにおいがした。
フェンスの向こう側で、犬は大きくなった。ピンと立った耳。しっかりと巻いた尾。美しい黄褐色。
洗車をしていると、柵の間から首をつきだし、鼻を鳴らして私を呼んだ。犬が好きで、しかし留守がちで犬を飼うことのできない私は、それにこたえずにはいられなかった。向こう側に手を伸ばして犬に触れるのが何か申し訳ないような、そんな気持ちになりながら。
やがては犬も年をとり、かつてのように遊びたがらなくなった。それでも、心地よさげに寝ころぶ老犬の姿は、ほんの少し足を止めて眺めるだけでも気持ちが安らぐものであった。
「あたたかい?」「あたたかい」。「るすばん?」「るすばん」。――通りがかり、心の中で交わされた、犬との会話。
それも、もうない。
私の犬であったなら、遺灰を葡萄の近くに埋めよう。一夏のあいだ枝葉を茂らせ、実を結ばせ、そこにしばらく留まるように。そしてやがてはこの世界にとけ込むように。
だが、隣家ではどうしたのか。
特段トラブルがあるわけでもないかわり、あいさつ以外、特に言葉を交わすこともない。どんな人たちなのか、何をしているのか、ほとんど何も知らない。知る機会もない。私にとって、隣家はあの犬がいる場所であり、そこの人々は、あの犬の飼い主であった。
犬がいなくなった今、隣家は一つの「番地」となった。これから先、フェンスの向こう側に気持ちを向けることもないだろう。
キーを持った右手を、ほんの少し握りしめた。
春色の供花に、遅い雪が舞いかかっては消えていた。
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