009 Fanstories

・ ファレノプシス ・

Phalaenopsis


LIST

1.

ダウンタウンを抜けて、裏側のお世辞にも上品とは言えない一帯を過ぎ、殺伐としたエリアの入り口あたりで、ジェロニモはタクシーを降ろされた。ニューヨークにやって来るたび、いつものことだ。今日の運転手はかなり頑張った方だ。

――惜しい。あと、100ヤード――
ジェロニモは活気のない街路を歩き出した。新聞紙や紙コップが風に舞う。荒れた建物の入り口には、若い者たちが虚ろな目をしてゴミのように座っている。交差点のあたりにたむろするグループ。いっせいに彼に向けた視線は凶暴だ。

ジェロニモは一見のんきそうに歩いているが、並はずれた体格の全身に隙はない。万が一の場合『よける』ためだ。彼が唯一心配なのは、虫の居所が悪いあるいは金が欲しいといった誰かが不幸にもいきなり自分を殴ったり蹴ったりして怪我をしはしないか、ということだった。

めざす建物は年代物のアパートで、ジェットはその最上階を1フロア占有している。

――やれやれ――
落書きにおおわれ、あちこち欠け落ちた煉瓦壁の前に立つと、ジェロニモは鉄製の外階段を見上げ、慎重に上り始めた。

――おっと――
次の段は溶接部分が腐食しているのだった。足を乗せない方がいい。鉄板ごと落ちても怪我をする心配はないが、階段が破損しては住人に迷惑だ。ジェロニモはかなりの時間をかけて、7階にたどり着いた。

「よお、ジェロニモ! よく来たなあ。」 ジェットは相変わらず元気そうだ。ジェロニモは挨拶の代わりにちょっと笑って見せた。

高いスカイライトから秋の陽射しが入ってくる。広いフロアにはスポーツ用品にカー用品、雑誌などが陽気に散乱している。

相変わらずの部屋を一通り見渡したジェロニモは、窓ぎわの鉢植えに目をとめた。白いファレノプシス。蝶の形をした純白の花が、アーチ状の茎に1ダースほど、優雅に並んでいる。くすんだレースのカーテンをバックに、そこだけが別の絵のようだ。

「ああ、あれか、きれいだろ?」
「むう・・・。」 ジェロニモは花の見事さに感動しつつ、当然の疑問を顔に表した。

「ああ、そーいうことだ。預かってんだよ。」 どうせオレには似合わない、そんな身振りをしながらも、ジェットはどこか嬉しそうだ。ジェロニモは、にやりとした。

「まったく、お見通しだな。カノジョがさ、旅行の間だけ頼むって。いいコだぜ。園芸が趣味でさ、すごく詳しいんだ。花のために、ここみたいな部屋に住んでんだってさ。」 ジェットはスカイライトに向けて親指を立てた。

「――何日?」 少し考えてから、ジェロニモが尋ねた。
「そういうことにおまえが興味あるって、珍しいじゃないか。1週間。あした帰ってくるはずなんだ。」 ジェットはそう言いながら、簡単なキッチンでコーヒーを入れ始めた。

「ああ、そうだ。全米農産フェアの方はどうだった? シンバイオーシス畜産ってのは、うまくいってんのか?」
「まずまず。――俺の方、心配 ない。」

ジェロニモは窓から通りを見下ろした。街路樹の1本もない。建物の隙間にはがらくたが積まれているか、それと大差ない『家』が居座っているかだ。向かいのアパートの窓に置かれた植木鉢の植物は、どれもいじけて弱々しい。散乱したゴミをあさるカラスだけが、たくましく生き生きとしている。

「あした、どうする?」
特に予定はない。久しぶりに顔を合わせ、お互いの無事を確認すれば、それでよかった。

「彼女を紹介するよ。3人で夕食にでも行こうや。」 ジェットはマグカップを両手に1個ずつ持ってきて、その片方をジェロニモに渡した。

「うむ・・・。」 ジェロニモは曖昧にうなずいた。
「よし、決まりだ。」


2.

その夜、屋根裏を利用した『ゲストルーム』で横になり、ジェロニモはファレノプシスとそれをジェットに預けた女のことを考えた。今の季節に、たった1週間。適当な温度と光があれば、何の世話も要らないはずだ。

――なぜか?――
農産フェアの花卉コーナーにも、あれほど見事なファレノプシスはなかった。高価なことは確かだろう。しかし、たとえ空き巣狙いが侵入したとしても、鉢花に手をつけるとは思えない。犯人がマニアだとか、有名なコレクターの温室なら別だが。

その女は、本当は花についてはまったくの素人なのか、それとも何か裏があるのか。

――考えすぎ、か――
ジェットは爆発物や通信機のチェックくらいはしているはずだ。その方面の心配はない。だがいったい、どういう女なのだろう。ジェットは気がよくて、惚れっぽい。今回もつらい結末にならなければいいのだが。

しかし、普通の人間でない自分たちが、普通の人間との関係において、何らかの意味でつらい結末を避けることができるだろうか。いや、普通の人間どうしであっても、つらい結末の方が多いのではないか。

ジェロニモは、人間と付き合うよりも自然の中に身を置くことのほうに安らぎを覚えた。もちろんそれは、彼に流れる祖先の血によるのかもしれなかった。しかし、彼はサイボーグになってから、大自然の諸々の精霊に、より親しみを感じるようになった。

おそらくその気持ちはジェットやアルベルトにはわからない。もちろんブリテンにも。ピュンマは――もし彼の両親が持っていた文化を彼が心の奥底に保っていれば。しかし、たぶん彼は否定するだろう。

――ジョーなら――
きっと、わかる。山を祀り、巨木を崇めた人々の末裔。『自然』に対してどこかに自分と同じ部分があるような気がする。唯一の神や科学という信仰を通して自然を外から見るのではなく・・・。

やがてジェロニモは眠りに落ちた。


3.

月明かりで紺色に透き通った夜空に昇り、ジェロニモはアパートを見下ろしていた。雑然とした建物が街路に青い影を落としている。

見ようと思えば、どんなところでも見えた。行こうと思えば、その瞬間そこにいた。闇が澱んだ橋桁の下、廃材で屋根をかけたエリアウェイの片隅、錆びた扉の前。そこにうずくまる人々は、まるで岩陰や茂みに身を寄せる野生動物だ。

ジェロニモは、故郷の荒野で星の降る下にいるのと同じ気配を感じた。そうだ、大自然の樹木や岩山に精霊が宿っているのと同じく、この都会にも精霊は存在するのだ。Genius Loci。ただその土地に在って、人間の営みを見守っている。

かつてあの島で『自分の身体』を失ったと知った時、彼は孤独感に打ちひしがれた。自然から生まれ自然の元に還る、そのサイクルから自分は切り離された――かけがえのない友をなくしたような気がした。

あの時、自分に職はなく、行くところもなく、食べるものさえなかった。誇りを失ったまま故郷で生きるよりはと、やつらの誘いに乗った。だがいっそ荒野でのたれ死にでもしていれば、文字通り永遠に自然の一部と化すことができただろうに――。

だが、現実に彼は生きていた。生きているしかなかった。そうして――闘いが始まり、それが終わり、ジェロニモは故郷の大自然のもとに戻った。そこで雨に打たれ、風に叩かれ、陽にさらされて、彼は気づいた。自分は以前よりも純粋な形で自然の一部となれるのだ、と。

彼にとって自然はもはや、時として人間にとってそうであるような脅威とはならない。暑さも寒さも、嵐でさえも。

生身の身体を失った『自分』は、この機械の身体に宿る精神なのだ。荒地の岩に宿る精霊と同列の存在なのだ。

自分はどこにも受け入れられない、そう思い込んでいた彼は、その時やっとやすらかな気持ちになれたのだった。

――こうしているのも、いい――
夜空に静止し、澄んだ月の光が自分を通り抜けていくのを感じながら、ジェロニモは今までにない不思議な気分になった。それは、『無』と同じほど静かな満足だった。――自然の一部となり、精霊としてただ存在し、この世界を見守っていられるなら。

ふと月の方を見ると、何かが姿を現していた。『それ』は、紺色の空に白く透き通っている。

――オマエ・・・、誰か?――
ジェロニモが尋ねかけた瞬間、『それ』は女の姿になった。華奢な褐色の肩をあらわにして、白く輝く花の布を巻き付けるように纏っている。その黙って自分を見つめる相手が何であるか、ジェロニモにはわかった。

――ファレノプシス――
そう言うジェロニモに、花の精は優雅に腰をかがめて挨拶をし、消え失せた。しかし、ただ一瞬それが足元の世界の一点に目を向けたのを、ジェロニモは見逃さなかった。


5.

次の瞬間『その場所』に存在したジェロニモが見たものは、古いビルから剥げ落ちたモルタルの山と、あたりを包む埃の雲だった。

その建物に居座っていた人々がごく最近力ずくで追い出されたことは、窓や戸口を閉ざす鉄パイプや分厚い板の新しさからわかる。周囲の空き地には、あちこちに水たまりができている。隣にあったはずのビルの跡には、ゴミさえまだ落ちていない。

大地に『接した』瞬間、ジェロニモにはその土地の精霊が感じられた。同時に、「瓦礫の下に人間がいることをそれが知っている」のもわかった。ビルの外壁に立てかけた板きれを屋根がわりにして、人が寝ていたのだ。

彼はすぐに瓦礫を取り除こうとした。だが、伸ばした手が積み重なったモルタルの破片を素通りしてしまう。何度やっても、持ち上げるどころか、手を触れた感じさえしない。

ジェロニモは気づいた。『身体』が必要なのだ。今ここにいるのは『精神』だけだ。

――まにあうか?――

ジェットのアパートに戻ろうとしたその時、「その人間が完全に死んだことを地の精霊が知った」ことが伝わってきた。間違いでも偽りでもないことが、彼にはわかった。

だが、確かめなければ。できるはずだ。決断すると、ジェロニモはまず腕を、そして思い切って頭を、瓦礫の『中』に入れ、奥まで入り込んだ。そして、すぐに外に戻った。

――助けられなかった――

落胆して地面に膝を落とし両手をついた――つもりだったが、地面はそこにあるのに、ないのと同じだった。さっきの瓦礫と同じように、なんの手応えもない。それでも彼がそのまま動かなかったのは、そうしていると何もできなかった無念さが癒されていくような気がしたからだ。

癒される――だが、大地が彼に何かをしたわけではない。何もせず、ただ存在していた。ジェロニモがその静かな存在に触れただけなのだ。

自分のいるこの一点から大陸、そしてこの惑星全体へ、太古の時代から今この時まで。空間と時間との遙かな広がり。それが大地の精霊だった。そこに一つになっていくような感覚は、心地よかった。

精霊は大地の上に在るものを知り、そこで起こることを見て、しかし悲しみも怒りもせず、希望や喜びも持たない。その静けさの中で、ジェロニモの感情は一粒の砂が海にたてた波紋よりも小さかった。

――Mother Earth ・ ・ ・ ――  大地と一つになる。街も砂漠も生き物も、人の争いや愚かさも、すべてを静かに見守り、闘いや嘆きとは一切関係のない存在となる。さっき空で感じた想いが、実現しようとしていた。



―― ・ ・ ・ ・ ・ !――




大地からは地区も番地もわからない。人間が作った街は大地にとって意味を持たず、ただ『ここ』は『ここ』でしかない。






6.

アパートの上空には、あのファレノプシスが姿を現していた。月の光を透き通らせ、やはり黙ってジェロニモを見つめている。しかしその目は、大地のように無表情ではなかった。

――なぜだ?――
他の精霊が無関心なのに、なぜこの花の精はあの事故を自分に知らせ、またここで待っているのか。

ファレノプシスは答えなかったが、さっきのように消えもしない。じっとジェロニモを見つめ、ただほんの少し、首を傾けた。まるで、何か確かめるように。

――助けられなかった――

ファレノプシスはわずかに頷いて、ジェロニモを見つめたまま、また首を傾げた。知りたかったのは、別のことのようだった。

 

 



「おい、ジェロニモ! 生きてんだろうな?!」 ジェットの大声がした。コーヒーの香りがのぼってくる。 「そろそろ起きてもいいんじゃねえか?」

スカイライトから見える空が青い。ジェロニモは自分の『身体』に戻っていた。手足を動かすというあたりまえのことが、新鮮に感じられた。

 





花卉セクションのラン展示場に入ったジェロニモは、昨夜のことを思い出しながら、ファレノプシスを見て歩いた。しかし、もし存在するとしても、明るい人工の光の中では花の精の気配を感じることはできないだろう。

一番奥まで来たが、やはりジェットの部屋にあったような見事な花は見あたらない。新しい品種であってもなくても、あれほどの花なら展示されているだろうと思ったのに。ジェロニモは首をひねった。

そのとき、誰かが彼の名を呼んだ。顔見知りのリーという男が、人なつこい笑顔で近づいてくるところだった。ラン専門業者で、経営規模は大きくないが、栽培技術の高さと素晴らしい改良品種で業界では有名だ。

中国系のリーは植物学者でもあり、金儲けよりも自分の研究のほうに熱心だ。もっとも、その成果がビジネスに貢献しているのは確かだったが。

リーはジェロニモを見上げて、手を差し出した。 「お久しぶりです、お元気でしたか?」

ジェロニモが彼流の挨拶をすると、リーは頷きながら言った。 「あなたの方も、頑張っておられますね。――どうです?最近は特に花が大型化して、見応えがあるでしょう。」

ジェロニモはとりあえず頷いて、黙っていた。

彼らのすぐ近く、突き当たりの一画には、小振りの地味な花が並んでいる。たいていの入場者は興味を示さないが、リーは宝石の山を独占するような目をして見渡した。 「これらは、保存用の原種です。」

「ご多分にもれず、遺伝子操作が盛んでしてね。――しかし、私はどうも感心しません。だから、あなたがたと同じ方向をめざしています。」

首を傾げたジェロニモに、リーは笑って言った。 「たしかに私はその研究で学位を取りましたが、感性に合わないのです。 ――彼らは理解しようともしませんが。」

 



ジェロニモには、リーの言いたいことがわかった。その様子を見て取ったリーは、頼もしい身方を得たとでもいうように、話を続けた。

「どこからは人間のやるべきことではないのか、その絶対的な境界は定められるものではありません。あるいは、あらゆる生物が自分の能力を最大限に使うのと同じように、人間もできることは何でもやってかまわないのかもしれません。けれど、少なくともそうしたことをしない自由は、あっていいはずです。」

そこでリーは言葉を切った。

――なにか、あったか?――
そう思いながら、ジェロニモは続きを待った。リーはちょっと照れたように笑い、

「もう1年以上前になりますが、私の研究所に、驚くべき研究成果を売り込みに来た人物がいました。もちろん、それがほんとうなら、です。大輪の白いファレノプシスで、その個体は完全に人工の――つまり組み替えではなく、設計どおりに合成された遺伝子を持っているというのです。」

 

 




その後ろの間仕切り壁には、原生地の写真や、気温や湿度のグラフなどを示すパネルが並んでいる。リーはその裏側にあるし、ミネラルウォーターのペットボトルを開け、紙コップに注いでテーブルに置いた。

「あのパネル展示は我が社が担当しました。これをどうぞ。」 リーは、簡単なガイドブックを差し出しながら言った。

「しかし、栽培に関する基本はご存じでしたね?」
ジェロニモは頷いた。育てたことはないが、以前リーに聞いたことがあった。
「すると、品種に関することでしょうか?」

彼は、壁際の箱から分厚い本を1冊取り出した。そしてその扉ページにサインをしてからジェロニモに渡し、いたずらっぽい笑いを見せた。 「セレブリティのつもりではありませんよ。疑いのかからないように、です。」

ジェロニモは感謝して受け取った。オールカラーの品種一覧がついた解説書は、リーの著作だ。

 

・ ファレノプシス ・

THE END


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