009 Fanstories

・ カリヨンの坂道 ・


LIST

1.

長い坂道に、カリヨンが響いている。

朝8時15分。この時間、歩いている人はまだ多くない。郊外の駅を出る時はひとかたまりになっていた人々も、上り坂の途中まで来るとかなり間隔が開き、両側の歩道はさらに閑散とした感じになる。すでに高くなった朝日を背に、紗耶香はのどかな鐘の音を聞きながら、初夏の空を見上げ、街路樹の梢を眺めて、ゆっくりと坂を上って行った。

緑をたたえた敷地には比較的新しいオフィスビルや企業の研究施設が並んでいる。学研都市のメインストリートにあたるこの広い道は丘の上まで登り、そこで両側に下る道にぶつかる。

そのT字路の右側一角を占める大学には赤煉瓦の塔がそびえ、鐘はそこから聞こえてくるのだった。電子制御の打鐘装置がいくつもの鐘を、まるで自由気ままに鳴っているかのように、響かせているのだ。

紗耶香が勤務する企業の研究所は、T字路の左手前、カリヨンの塔の向かい側にある。そこまであと少しというところで、最後の音を長く残して鐘が鳴りやんだ。その時、彼女を追い越して行く人物があった。

明るい栗色に輝く髪。少し細身の古代ギリシア彫刻が今風の服を身につけたような、均整の取れた身体。若いが、大学生ではなさそうだ。かなりの速さであるにもかかわらず、息を切らしたふうもなく軽々とした足運びで坂を上って行く。

一瞬立ち止まった紗耶香は、ふと気づいた。足音が全く聞こえなかった。見たところごく普通の皮靴で、もしその靴底が特殊なものでないとしたら、細心の注意を払って足を着地させているのか――あの速さで。彼女は去ってゆく青年がかなり気になった。しかし、彼女のグループが行っている衝撃吸収床材の研究と関係がないわけではないから――というよりもきっとあの後ろ姿のせいだ、と紗耶香は思い、ため息をついた。

その青年は紗耶香の研究所の前を通り過ぎ、T字路を左に曲がって行った。それを見送り、門衛所を抜けて構内を歩きながら、彼女はまた思い当たった。「どうやって来たんだろう。」

まだ次の電車が着く時刻ではなかった。この人工の街の近くに人家はないから、かなり遠くから歩いてきたのか。隣の駅から来るバスの停留所は、T字路を曲がったところにある。「きっと、誰かに乗せてきてもらったのね。」

 

2.

紗耶香がまたあの青年に追い越されたのは、2日後だった。確かに、同じ電車に乗ってはいなかった。

その次の日は、坂の上から降りてくるところとすれ違った。自分より少し若い。想像していた通りの、端整な顔立ち。長めの前髪が片目をおおうように垂れている。「おおっぴらに憧れても、はずかしくないわね。」彼女は少し楽しくなったが、その一方で、青年の姿のどこか人間離れした完璧さに、少し怖いような気持ちを感じないではいられなかった。

次の週明け、紗耶香はいつものように坂道にさしかかった。そろそろ雨でなくても自家用車通勤にしようか、と考えつつ、彼女は今朝もまた電車でやって来ていた。

珍しいことに、誰か坂の上からベビーカーを押して来る。亜麻色の髪に、透き通るような肌。お人形のような、整った顔立ち。どこかの外国人社員の家族なのだろう。ずいぶん若い母親、それともベビーシッターか。紗耶香がそう思っていると、いきなり赤ん坊が泣き出した。ぐずっているのではなく、まるで打たれでもしたような激しい泣き方だった。

周囲の人が、何事かとそちらを見た。振り返る人もいる。亜麻色の髪の女性はあわてて赤ん坊を抱き上げた。「Ivan!」その後は何語かわからなかったが、名前だけは聞き取れた。「Is your baby all right?」一番近くにいた紗耶香はとりあえず声をかけた。

「ありがとう。だいじょうぶ。」日本語だ。大きな青い瞳が、とても美しい。しかし、微笑んではいるものの、かまってほしくない様子は明らかだ。

紗耶香はそのまま通り過ぎた。そういえば、さっきあの赤ん坊が泣き始める直前、何か――考えようとしたのか、気がついたのか思い出そうとしたのか、それとも――それとも?それ以外にあるわけがない。何か思いついて忘れてしまうことはよくあるのだから。

すぐに鐘が響き始めた。そののどかな音の中、坂の上からミニバンが1台すごい勢いでやって来た。ふと見ると、運転しているのはあの青年だ。交通量のごく少ない道路、タイヤを鳴らしてターンすると、さっきのベビーカーの横につけた。「なんだ、そういうことだったの。」

 

3.

次の日、紗耶香はクルマで出社した。電車で来る時のように時刻が一定ではないから、空に広がるカリヨンの音を必ずしも聞くことが出来ないのが残念だ。だがきつい陽射しを背中に浴びて坂道を上ることを思えば、しかたがない。

「あら。」 クルマがいつもの坂道を登り始めた時、昨日の外国人女性が坂を下りてくるのが目に入った。やはりベビーカーを押している。

そちらに近づきながら、彼女はまた何か感じたような気がした。それとほぼ同時に亜麻色の髪の女性が赤ん坊を抱き上げるのが見え、すれ違いざま、はじけるような泣き声が窓ガラスを突き抜けてきた。「やれやれ、癇癪持ちの赤ちゃんって、大変だわ。」

昼休み、紗耶香は親しい同僚と食堂で一緒になった。所属する研究グループが違うため、このところ社内で顔をあわせる機会がなかったのだが。
「久しぶり。」
「ほんと、メールばっかりだものね。」
2人は女性向けの『F定食』を取ると、エアコンの風があたらない席にトレーを置いた。陸の孤島ではあっても、食堂がゆったりしている点では本社よりも恵まれていた。

定食を食べながら、紗耶香は朝の坂道のことを話した。「なんだか、我が子を虐待する母親の気持ち、わかるような気がするわ。わけわかんないで泣き叫ばれたら、たまらないもの。」
「他人が思うほどこたえてないわよ。ああ、たぶんそのすてきなご夫婦ってのは、NBG研究所の人たちじゃないかな。あそこ、ほとんど外国人だもの。いろんな国から来てるのね。」
「ちょと、まって。NBGって…。」 この研究所はT字路を左に行ったところにあったが、ついこの間、閉鎖したはずだ。日本には本社も支社もなく、小規模な研究施設だけがここに置かれていた。表面上は特に変わったことはなかったものの、具体的には何をしているのかわからない、得体の知れない企業だった。

「閉鎖したんじゃなかったっけ?」
「ええ? 何言ってるのよ。勝手によその研究所つぶしちゃダメよ。」
「でも、爆発おこして…。」
「大丈夫だったでしょ。」
紗耶香は相手の顔を黙って眺めた。冗談を言っているわけではなさそうだ。

確かに、夜中の爆発事故は深刻なものではなかったらしい。だが、そのすぐ翌日、あの研究所は無人になっていたのではなかったか。その時「事故じゃなくて絶対にテロよ、よっぽどヤバイことやってたんだわ、あそこ。だから逃げたのよ。」とメールしてきたのは、この同僚だった。それに、外国人が多いだとか何だとか言うほど人の出入りがあったようには聞いていない。確か、敷地内に寮があるということだったが…。

しかし考えてみれば自分には関係のないことで、紗耶香はそれ以上追究せずに、デザートのアロエヨーグルトを開けた。しかし、やはり何かざらりとした感覚が心に残って、いつまでも消えなかった。

 

4.

次の朝、紗耶香は早めに家を出た。昨日のことが少し気になっていた。あの研究所が早々に復活したのをみんなが知っていて、自分が知らなかっただけなら、それでかまわない。たぶん、そういうことなのだろう。しかし、思い出しそうでどうしても思い出せない時のように、彼女の心に何かがひっかかっていた。

彼女はいつもより少し遠回りすることにした。NBG研究所の前を通ってT字路に出るコースだ。こちらの坂はいつもの坂道よりもなだらかで、もっと長い。少し上ったところで、左側の歩道をあの青年が歩いてくるのとすれ違った。その姿に一瞬ときめいたものの、彼女はすぐに思った。「いったい、何をしているのかしら。」

しかし、とりあえずそれは考えないことにして、紗耶香はNBGの手前で歩道に寄せ、窓を開けてエンジンを止めた。曇り空の下、街路樹の葉をそよがせる風はさすがにまだ涼しい。ふと目をやると、青年はミラーの中で遠ざかり、ほとんど見えなくなっていた。

少し経ったが、誰もやって来ない。あたりを見回しても、誰も歩いていない。人の出入りを確かめるのなら、普通の出社時間帯に来るべきだったのだ。これでは何もわからない。このまま待っているのもどうかと思う。

さすがに馬鹿らしくなってクルマを出した時、あのお人形のような外国人女性がベビーカーを押して門から出てくるのが見えた。「やっぱりここの人たちだったんだ。でも、ファミリーで赴任してくるって雰囲気じゃなかったと思うけど…。」

亜麻色の髪の女性は門の外で立ち止まり、ふと紗耶香の方を見た。ベビーカーの前を通り過ぎる時、赤ん坊の泣き声が聞こえた。この前と同じだ。そう思った瞬間、真ん前に人影が現れた。紗耶香はブレーキペダルを蹴飛ばすように踏みつけた。タイヤが鳴いて車体が前に大きくのめり、助手席に置いたバッグが吹っ飛んだ。「間に合った。」

あの青年だった。バンパーぎりぎりのところに、平然と立っている。紗耶香の安堵は純粋の怒りに変わった。動悸はまだ治まらない。しかし、あまりの怒りに頭が澄み切っているような感じさえする。

青年が運転席側にやって来た。紗耶香はドアロックをし、パワーウィンドウのスイッチを動かした。が、一瞬遅かった。青年は上がり始めた窓ガラスの上端に指を置いた。それほど力を入れたようには見えなかったのに、安全装置が働いてガラスが下がった。

青年は上体をかがめて覗き込んだ。端正な顔は変わらなかったが、茶色の瞳には険しい感情が現れている。だがそれが敵意にせよ憎悪であるにせよ、彼女には全く覚えのないことだった。

「飛び出しは迷惑です。…どいてください。」紗耶香はそう言ってからまた窓のスイッチを動かした。しかし、また軽く押し下げられてしまう。
「壊すつもりなの?」
「ちょっと、話があるんだ。」
「私には、お話はありません。」
「イワンに、何をした?」
「イワン? ああ、あの…。」ベビーカーの方を見ると、どうやらすぐに泣きやんだようだ。
「何も出来るわけないじゃないですか。」
「泣き始めた時、近くには他に誰もいなかったはずだ。」
「子供が泣くのは親の責任でしょう?」

紗耶香はそう言いながら、あの感じに今度ははっきりと気がついた。何かが自分の意識に入って来るような。だがそんなことは今はどうでもいいことで、彼女はその感覚を払いのけるように言った。
「いい加減にしてください。文句があるのなら警察に――」

言い始めると同時に、また赤ん坊が泣いた。凄まじい泣き方だ。同時に紗耶香は『声』を聞いたような気がした。[そのひとは、ちがう。]そして泣き声がとぎれた。

「ちがう・・・?」青年はかがんだままベビーカーの方を見て、また紗耶香の方を見て、迷ったような顔をしている。

「ジョー!イワンが!!」あの女性の叫び声。「どうしたフランソワーズ?!」青年はそう言って、そちらに駆け寄った。

「なによ、最っ低だわ。」しかし、謝罪の一言くらいなどと文句を言っている場合ではない。紗耶香は素早くクルマを出し、T字路に向かった。その時ミラーを見て、ふと思った。「あの人、いつのまに戻ってきたのかしら・・・。」

しかし、その不思議さよりも、間違いにせよ自分が置かれた理不尽な状況に対する怖さの方が大きかった。「じゃあ、間違いじゃない誰か他の人だったら、あそこからあのベビーカーに何かできたっていうの?」どう考えても、普通ではなかった。

 

5.

激しい頭痛のような感覚で、紗耶香は目を開けた。だが、別に頭が痛いわけではない。ただ、頭の芯が疲れたような感じがする。その時ちょうど、窓の下でクルマが急発進する音が聞こえた。「こんな夜中に?」そう思ってのぞくと、街灯に照らされて、ミニバンが1台遠ざかっていくところだった。あの青年が乗っていたのと同じだったが。「まさか、ね。」

内容は覚えていないが、夢の中でずいぶん感情を高ぶらせたらしい。紗耶香は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに1杯飲んだ。午前3時。ずっと遠くで走り回るバイクの音が、昆虫の羽音になって聞こえてくる。

ベッドに戻った彼女は、今度は、多分そうだろうと思うのだが、あの赤ん坊の夢を見た。遠近感のない空間で、しきりに自分に『語りかけて』いた。だがいったい何に怒っているのか、自分はそれを邪険に拒絶するのだ。

「私は何もしてないのよ!」
「しかし、キミは…。」
「うるさいわね! 触れないでって言ってるでしょう?!」そう言って、何か力を叩きつけたような気がした瞬間、はじけるような泣き声がして、相手はボロ人形になってズタズタに引き裂かれていた。と思ったら、そこにいるのはあの青年で、怒ったような悲しいような茶色の瞳で「イワンに、何をした?」と問いつめるのだった。

そう言われると、何もしていないはずなのに、確かに自分はイワンにひどいことをしたのだという気になり、青年に謝ろうと思うのだが、追いつかない。さっきまで何度も自分を追い越して歩いていたのに。声を出そうとすると、胸が苦しい。

紗耶香は自分のうめき声で目を覚ました。今度は本当に軽い頭痛がしていた。時計を見ると、もう少しで6時になるところだ。

2つめの夢は、はっきりと思い出せた。悪夢というほどではないが、やはり嫌な感じがする。それに、いったいなぜあの赤ん坊に対してあんなに怒っていたのか、不可解だった。なんとなく、1つ目の夢と2つ目の夢は関係がありそうだという気がするのだが、それもよくわからない。

そんなことを考えていると、また眠ってしまいそうだ。紗耶香は6時の目覚ましが鳴る前にスイッチを止め、起きあがった。いつものように軽い朝食、新聞に目を通し、そして身支度を済ませて部屋を出る頃には頭痛は治まっていた。

「そういえば、あれからあの人たちを見かけない。」関わりたくはないと思いながらも、彼女は気にかけずにはいられなかった。彼らは本当にあそこの人間なのか。いったい何をしているのか。

周囲の人々の言うように「NBG研究所の様子に以前と変わったところはない」とは、紗耶香にはどうしても思えなかった。詳しく知っていたわけではないし、今もほとんど何もわからない。根拠は自分の感覚だけなのだが。

そして何より、自分のその感覚が何なのか、それが気になった。自分はどうかしてしまったのではないか。彼女は不安になった。

しかし、その日もいつもと同じように一日の仕事が過ぎる。彼女のグループの開発研究は試作品の試験が一段落したところだった。製品化に向けてその報告資料を作成するのは紗耶香の担当で、苦手な説明文書は少し残って片づけた。

駐車場に出ると、研究所には明るい窓がいくつか残っていた。あたりの建物にはフロア全体に照明が灯っているところもある。しかしさすがに市街地から離れているだけあって、空には星がくっきりと広がっている。

紗耶香は立ち止まって自分の真上まで見上げ、少し目眩を感じて、あわてて自分のクルマの方に歩き始めた。だが、またすぐに足を止めた。誰かがクルマの所にいる。さっきまで誰もいなかったはずだ。「誰?」そう思うまでもなかった。栗色をした長めの前髪が見えた。「確か、ジョーって言ってた…。」

 

6.

紗耶香は覚悟を決めて歩き出した。歓迎できる相手ではないが、危険はなさそうだ。理由のない確信のようなものが彼女にはあった。

しかしどこからどうやって侵入したのか。塀の外は他社の敷地だから、まずそこに入るのが困難だろう。道路側から見る限りでは開放的な敷地の使い方をしているが、その分どこの会社でも防犯設備は整えているはずだ。考えられる方法は…。だが、それは実現できることではない。

「あの…。」青年は紗耶香に声をかけた。「このあいだは、申し訳ないことをしてしまって…。」
「それはどうも。」彼女は相手を見ないようにして答えた。
「それで――話があるんだ。」
「私は聞く気がないの。お引き取りください。」そう言いながらドアに近づき、キーのリモコンボタンを押そうとして、気がついた。助手席のロックも開いてしまう。「まったく、なんてマヌケなの。」彼女は心の中で自分のクルマをののしった。

クルマを挟んで向かい合ったまま、これではどうしようもない。しかし青年はかまわずに続けた。穏やかな口調だが、どうしても譲れない、とでもいうように。

「信じる信じないはキミの自由だ。信じてもらえないかもしれないけど。」
「じゃあ話しても無駄だわ。」
「僕の気が済まないんだ。」
「なぜ私が、あなたの気が済むようにしなくちゃならないの? 」紗耶香は少し意地悪に言った。「それとも、聞かなきゃ損な面白い話だって言うの?」

特に意表をついた言い返しでもないのに、相手は言葉につまって、うつむいてしまった。それを見た彼女は、少し可哀想な気持ちになった。この青年は本当は真面目で、だからこうして、たぶん先日の一件の釈明をしに来たのだろう。

「わかったわ。じゃあ、その話っていうのを聞きましょう。でもその前に、どうやって入ってきたの?」
「僕は――わかりやすく言うと、移動に関する『超能力』を持っているから。」青年はほっとした口調でそこまで言って、ちょっと笑ったようだった。紗耶香のあきれ顔に気づいたらしい。「実際にやってみせた方が、いいかな。」

「あそこから飛び降りたんだ。」そう言いながら見上げているのは、隣の社屋の屋上だった。5階建て、高さは20メートルくらいあるだろう。紗耶香が視線を青年の方に戻した時、その姿が消えて空気を切る音がした。まさかと思って屋上を見ると、星空の中、フェンスを高く飛び越えるところだった。

青年は屋上に降り立った。翼を持っているかのように。そしてすぐにそこから身を翻すと、声も出ないままの紗耶香の横に静かに着地した。

「――今、消えたわ。」紗耶香はやっと言った。
「だから、『超能力』だって言ったんだ。」青年は微笑んだ。「でも消えたわけじゃない。あそこまでだと――初速は90キロくらいかな、だから近くにいるとそんなふうに見えるんだ。じゃあ、外で。」そう言うと、また風の音をさせて、姿を消した。

「信じるしか、ないのね。」そう思いながら、紗耶香はドアのロックを開けた。こうなると、常識よりも自分の目で見たことを信じた方が楽だった。

道路に出ると、街路樹の下で青年が待っていた。

 

7.

2人は街を流れる川沿いの道路でクルマを降りた。遊歩道には柳の大木が、流れるような枝を垂らしている。向こう岸にある河川敷公園は夜景の下でほの暗く、すわって肩を寄せ合うカップルが何組か見えた。

青年は、コンクリート擬木の柵に水の方を向いて腰をかけ、そして話を始めた。対岸の街の灯りを、それがまるで自分の記憶であるかのように見つめながら。紗耶香も柵にもたれて、その夜景を眺めていた。2人の後ろをクルマのライトがひっきりなしに流れていく。

「僕たちは、ずっと戦ってきた。ブラックゴースト、そしてそれを倒したあとはネオ・ブラックゴーストと呼ばれる組織と。」

実際に、ヴィッカーズやクルップといった兵器製造の大企業は存在した。その存在のあり方を考えると、ブラックゴーストによる超近代兵器の開発製造に世界中の関連企業が出資をしたということは、ありえない話とは思えなかった。そして、それら闇の組織が戦争や紛争を起こす秘密工作をしてきたということも。

彼ら9人の『超能力者』と1人の科学者は、たったそれだけの人数で強大な組織と戦ってきたのだという。

「あの赤ちゃんは? あの人の…。」
「いいや、イワンも仲間なんだ。イワンだけが本当の超能力を持っていて、あとはみんな機械の助けを借りている。」

「それは――戦う、ために?」
「そう、意味は違うけどね。――そもそも僕たち自身が、やつらの開発した超近代兵器だった。宇宙でも海底でも戦争ができるように、人間の身体を改造する。その実験材料にされたんだ。」

「――そんなことって…。」 紗耶香は胸をふさがれる思いで、言葉もなかった。人体実験とは、彼女にとってこれまで単なる歴史の知識でしかなかったのだ。

「だから、戦っている。精神<こころ>まで改造されなかったのが、せめてもの救いだね。」紗耶香の方を見ると、青年は慰めるように言った。こんな乏しい光の中でも、彼女の細かな表情まではっきりと見えるらしい。それも『超能力』なのだろう。

言葉が途切れた。ちょうど信号で道路の流れが止まった。低い堰を落ちる水の音が、大きくなった。

「ネオ・ブラックゴースト…NBG。」
「じゃあ、あの研究所…。」

 

8.

NBGはかつての中央集権的な巨大組織を失っていた。「今のうちに叩いておくべきだ。」彼らは当然そう判断した。

しかし戦う相手としては、以前より始末が悪かった。現在の組織形態はまさに『細胞』集団であり、世界中に点在する小規模な拠点が『NBG本社』を支え、しかもそれぞれが独立して活動しているため、1カ所が消滅しても他への影響は深刻なものではなかったからだ。そして、その『本社』は実体を持たなかった。

かつて旧ブラックゴーストは兵器の開発と生産を行う一方で、秘密工作によって戦争紛争を起こし、需要を確保していた。すなわち利益追求という企業としての側面を持っていたのだが、現在のNBGはその企業の論理をさらに徹底させている。

今やNBGを支配しているのは『採算』であって、一個人が支配欲や復讐心を満たすために利用できる組織ではなくなっていた。同じ理由で、壊滅的事故、研究や取引上の重大な失敗その他によって存続の価値がないと判断された拠点は、容赦なく切り捨てられる。彼らはNBGのその体質を利用して、密かな攻撃を繰り返していた。

そして、しばらく前、彼らはこのNBG研究所を攻撃した。用意周到な計画のもと、短時間で一気に制圧したのだ。

『所長』は逃げられないと悟って自決した。事態を本社に通報する間もなかった。もっとも、たとえ連絡する時間があったとしても、それに必要な装置はその時『故障』していただろう。無抵抗の所員は一箇所に集め、NBGに関することを忘れるようイワンが暗示をかけて、解放した。

研究所は調査中だが、すぐに一部の装置だけを破壊した他はほとんど手をつけず、NBG本社から怪しまれないように、撤退する時までは通信も遮断しない。

一昔前なら研究所の責任者が直接本社と連絡をとっていたところだが、全てがオンライン化・機械化されているため、いったんシステムを掌握してしまえば、かえって相手を欺きやすくなっていた。イワンにとっては、パスワードもその他の様々な機密も、担当者が大声で言いふらしているのと同じだった。

山中の無人地下工場の方も、見張りをかねて交代で調査作業に当たっている。やがては内部を完全に破壊し、出入り口をふさいで隠すことになっていた。

やって来てから2日後、イワンはこの学研都市の人々に暗示をかける作業に取りかかった。「『NBG研究所の様子』は以前から今の通りである」と。人々は、彼らの顔もよく覚えてはいないはずだった。彼らの存在も活動も、一般の人々に知られるべきではない。

それは時間帯と場所を変え、数回にわけて行われた。人口の100%に暗示をかける必要はなかった。個人にとってさして重要でない事柄は、周囲の人間が言うことを「そんなものか」と受け入れてしまうのが普通だからだ。

しかし、それもそろそろ終了という時に、イワンに異変が起こったのだった。

 

9.

「だけど、それは許せない。人の意識や記憶に干渉するなんて。たとえ本人にはわからなくたって――だって、記憶って、『その人』が『その人』でいるための…。」うまくは言えなかったが、紗耶香は何か間違っていると思った。

青年は夜空を見上げ、それから紗耶香の顔をまっすぐに見つめて言った。「たぶん、そうだろう。キミの言うことは、正しいと思う。だけど。」そこで言葉を切り、青年は街灯りに目を移した。

「悪と戦うってことは、正しいことばかりじゃ済まないんだ。」自分に言い聞かせるような口調だった。

紗耶香には判断がつかなかった。声にならない疑問がいくつも頭の中をめぐっていた。しかし、自分自身が同じ問題に直面しなければ、答えは出ないだろう。

「あの、イワンは、なぜ…?」その件については、質問する権利がありそうだった。

「イワンが言ってたけど、キミにも本物の超能力があるんだ。気づいてないだろうけど。それに、コントロールもできないんだって。」
「私には何もできないわ。」

「キミはね、超能力の作用をブロックする力を持っている。イワンは、いつも通りそこにいた人全員に暗示をかけようとして、それがはね返されたので、ビックリして泣いた。だけど、僕たちには何も言わなかった。プライドが傷ついたらしいんだ、自分の力に自信を持っていたから。」

「それで、あの日、キミが研究所の前にいただろう? イワンは、もしやと思って、キミに暗示をかけようとした。」
「そして、また泣いた。きっとあの人が『超能力』であなたに知らせたのね。」
「そう。僕はてっきりキミがイワンを攻撃したんだと思ったんだ。ほんとうに、申し訳ない。」
「まったく、私の方が死にそうだったわ。何のことだか、わけはわからないし。――でも、もう怒ってませんから。」

「よかった。」青年は、ほんとうにほっとしたようだった。

「でもあの後、大変みたいだったけど?」
「イワンはキミの精神に力ずくで侵入して…敵じゃないってことだけはわかったんだけど、思いっきり殴られたような感じだったらしい。ショックで意識がなくなってしまったんだ。」

「だからあの時…。それじゃ、ひどいことをしたのは私の方だわ。大丈夫だったの?」
「まる1日と少し、眠ったままだったけど、大丈夫だよ。それに、イワンはまた『不法侵入』しようとしたんだから。」

「もしかしたら、夜中に?」
「やっぱり気づいてたんだね。キミに事情を説明するって言ってたけど、本当は自分が負けたと思って、納得がいかなかったんじゃないかな。」

イワンは意地になって自分の意識に干渉しようとしたのだろう。だから――。紗耶香は夢のことを思い出した。しかし、そのことは口に出さなかった。

「イワンはすごい能力<ちから>を持っているけど、子供なんだ。これで、ちょっとは大人になったかな。自分より強い者がいるって、わかったんだから。」

青年の表情はよくわからなかった。しかし、きっと穏やかなやさしい目をして夜景を見つめているに違いない。

「これで、僕の話は終わり。」
「気が済んだかしら?」
「感謝します。」その言い方に、紗耶香は少し笑った。

「なぜ、話したの?」
「さあ。――たぶん、誰かにわかってほしかったから、かもしれないな。」

青年は思い出したように付け加えた。「僕たち、もう少ししたらあの研究所を出るんだ。」

 

10.

朝の丘にカリヨンが響いている。高く低く、いくつもの鐘の音が絡み合う。紗耶香は駐車場でクルマのドアを閉め、建物の向こうにそびえる塔を見上げた。そして、隣のあの社屋。吸い込まれそうな空の色。

紗耶香は研究所の入り口に向かって歩きながら、前の日に同僚から聞いたことを思い出した。
「先週、NBG研究所が撤退したんだって。経営が悪化して、研究施設の維持までできなくなったって噂よ。あとにはベンチャーが入るんだって。」

そう、『彼ら』は行ってしまったのだ。ジョーと呼ばれるあの青年が言った通りに。坂道で初めて追い越されてから、2週間以上が過ぎていた。

最後の音を長く残して、鐘が鳴りやんだ。

   「キミは僕の話、信じるかな。」
   「ええ。」
   「誰かに話す?」
   「いいえ。ただ、ずっと信じているわ。」
   「よかった。じゃあ。」

映画のラストシーンを見るように、紗耶香は青年の後ろ姿を思い浮かべていた。


・ カリヨンの坂道 ・

THE END

 


LIST

よろしければどうぞ
>>オリジナルバージョン