MOONLIGHT

・ 魔法のペンギン ・
Aquamarine

By Ryo Shimamura


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そうですね、マンガのストーリーに使えるかどうかはわかりませんが。高校1年のときの話です。

1月の後半だったと思います。なんとなく、水族館へ行ってみたんです。毎日がおもしろくなくて、かといって積極的に(?)反抗してみるほどでもない、平凡で目立たない生徒でした。せめて、いつもと違うところへ行きたかったのでしょう。

たいして期待はしていませんでした。けれど、入り口の大水槽のところで、涙が出そうになりました。水底から泡が出ていて、それがずっと上の水面に向かって、キラキラとのぼっていきます。その間を、大きなエイが泳いでいます。何度も宙返りをして円を描き、ゆったりと舞っているのです。

ずっとそこに立って見上げていたい気がしました。けれど、その先にはいろんな生き物がいるのです。やっと歩き出した頃には、足首が痛くなっていました。

「もっと早く来てみればよかった。」 そう思いながら、いつのまにかとても楽しくなっている自分に気がつきました。ラッコにアシカ、ふわふわと揺れる大クラゲ。「次は何だろう?」 そんなふうに期待するなんて、しばらくなかったことでした。

そうして、最後のペンギンのところまでやって来ました。足の疲れは限界に近づいていましたが、それでも時間を忘れて見ていました。危なっかしい足どり、ぱたぱた動く翼。伸ばすと意外に細くて長い首が、器用です。頭と胸にあざやかなオレンジ色が入っています。キングペンギンでした。

そのうちにかき氷が降ってきました。ペンギンは集まって上を向き、口をパクパクするのです。喜んでいるのでしょう。私も嬉しくなりました。毎日「つまらない」と思っていたなんて、信じられないくらいでした。

すっかり幸せめいた気分で、1階のミュージアムショップに入りました。イルカのドアベル、クジラやペンギンのクリアフォルダ。ふと見上げると、ガラスケースの上に大きなペンギンの縫いぐるみが置いてありました。

実物よりもかなり太めですが、キングペンギンそっくりで、おもしろそうです。1万円。お年玉がそっくり残っていたので、買えない値段ではありません。迷いました。あたりを一回りして、考えました。

「やっぱり、やめとこう。」 そうしてショップを出ようとしました。けれど、ふと振り返ったとき、そのペンギンが笑ったように見えたのです。

「まさか。」 そうは思いましたが、戻らずにはいられませんでした。そこでもう一度迷って、買ってしまいました。

店員さんはペンギンを大きな荷造り用紙でくるみ、紐を2本かけて提げ手をつけてくれました。私はそれを抱きかかえて駅まで歩き、電車を乗り継いで、家に帰りました。

その大きくて不格好な包みを持って歩くのは、ちょっとした冒険でした。みんなが見ないフリで見ているような気がします。「この中身がペンギンの縫いぐるみだとは誰も思わない。」 そう考えると、思い出し笑いのように笑ってしまうのでした。

「こんなことも、あるんだ。」 こんなに楽しいことがあるなんて。自分には縁のないことだと、それまで思っていたようでした。「早く帰って、開けてみよう。」 積極的に家に帰りたいなんて。いつの頃からか、帰らなくてはならないから家に帰る、そう思うようになっていたのです。

駅を出たところで、隣のクラスの男子生徒がやって来るのが見えました。憧れていた人です。ヘンな大荷物を持っているなんて、普段なら恥ずかしいと思ったでしょう。けれど、その日の私は特別でした。さすがに気づかぬフリはしてしまいましたが、堂々と横断歩道を渡りました。

商店街の入り口にある模型ショップの前では、同じクラスの男子が2人か3人、だべっていました。1人が私の方を見て「あれ?」という顔をしましたが、立ち止まって話をするほど親しくはありません。それでも自然に笑って通り過ぎたのは、『秘密の荷物』を運んでいる楽しさのせいだったのでしょう。




両親はまだ家に帰っていませんでした。自分の部屋で包みをほどきます。ショップで見たときより、ペンギンはずっと大きく見えました。私の上半身と同じくらいです。お尻のところには布タグが縫いつけてあります。「株式会社ホワイト・エンジェル」と書いてあるだけで、生産国や材質の表示はありません。

手触りはなめらかで、ずっと前にお隣にいた犬のようです。抱きかかえると、気持ちよくあたたかい。けれど、あらためて眺めてみると、ペンギンは無表情で無愛想でした。

「無愛想ペンギン。」 口に出して言いながら、縫いぐるみを自分の椅子に載せました。勉強机に向かったペンギンは、なんだか似合いました。くちばしがほんの少し上を向いて、ちょっと得意そうです。

「かわいい」と思ったとき、ペンギンが笑いました。目も、くちばしも、どこも動かないのに。声がしたのでもないと思います。それでも、ほんとうに、「ふふん」と得意そうに笑ったのです。

「なんだったんだろう?」 あちこち向きを変えて、よく見てみました。でもやっぱり、ただの無表情な縫いぐるみでした。

両親が帰ってきました。夕食のときに、水族館へ行った事を話しました。普段は特に話したいこともなくて、その日のことなど聞かれるのがうっとおしいと思っていました。両親だって、いつもとおりいっぺんの返事しかしやしないのです。

けれど、水族館の話は盛り上がりました。父も母も、まるで私と同じ高校生みたいに。「今の水族館はすごいんだな。」「ペンギン、見てみたいわ。」 そうして、次の休みには両親二人で行ってみることになったのです。意外な展開でした。

縫いぐるみのことは黙っていました。衝動買いにしては高い買い物だったから、叱られると思ったのです。せっかくの雰囲気を壊したくはありませんでした。

自分の部屋では、ペンギンが勉強机の前でさっきのまま得意そうにしていました。ふと思いついて、ペンギンの身体を前に倒し気味にしてみました。するともうほんとうに、真面目に勉強しているポーズです。月曜日は実力テストなのでした。

それを見ていたら、私もちょっとくらい勉強してもいいかな、という気になりました。「テスト、なんだよね。」 そう声に出して、机の横のベッドに縫いぐるみを置きました。するとちょうど机を横から覗き込んでいるように見えるのです。

「ふうん、じゃあ、」私は机に向かい、英語の問題集とノートを広げて、言いました。「ペンギン、ここ、やっといたほうがいいかな?」 ペンギンが自信ありげに笑いました。「うむっ」という感じで、頷いたようにも見えました。

「ええ?」 驚きながらも、とりあえずそのページを見直ししました。そうして、気になるところをまた尋ねてみました。ペンギンは笑いました。

不思議でしたが、深く考えるのはやめました。そうやって答えてくれると助かりますし、なにより、おもしろかったのですから。「魔法のペンギンなんだ。」 そう思っておくことにしました。もう子供ではないので、それくらい、いいでしょう。

日曜の夜には、同じようにして古文と数学が片づきました。なんだか、ペンギンに調子に乗せられてしまったみたいでした。

そして、月曜日。問題を見て、思わず「うそ」と口にしそうでした。大当たりだったのです。「ふふん」と得意そうに笑うペンギンが、目に浮かびます。3限目でテストが終わると、大急ぎで家に帰りました。私はペンギンを抱きかかえて踊ってしまいました。

その夜、夢を見ました。水族館の大水槽を見上げて、エイが泳いでいると思っていたら、それは私のペンギンで、しかも空なのです。はるか上の方に泡が消えていきます。その中を泳ぐペンギンは、いつのまにか天使になっていました。翼を広げ、白い衣をなびかせて、優雅に宙を舞っているのでした。

学校も家もつまらない、毎日おもしろくない。どうしてそんなふうに思っていたのでしょう。ペンギンが来てから、いろんなことが楽しくなったような気がします。やっていることはそれまでと同じで、相変わらず失敗はするし、忘れることもあるし、叱られたりもします。なのに、何かが違うのです。『魔法のペンギン』の力だと思いました。

「ペンギン。」 私が何か尋ねると、ペンギンは笑ったり頷いたりしました。無表情のままのこともありました。そういうときは『ハズレ』なのです。もちろんそれは私だけの秘密でした。




2月になって、バレンタインデーが近づいてきました。なんだか元気になっていた私は、隣のクラスのあの人にチョコレートを渡そうという気にさえなりました。

「ペンギン。」 けれど、ペンギンは縫いぐるみの顔をしたままでした。がっかりしました。でも、せっかく決心したのです。ちょっと頑張ってチョコレートを買いました。

バレンタインデーは日曜日。学校で渡すなら金曜日です。私はチョコレートの包みを鞄に入れて登校しました。食べるものを靴箱に入れるのは気が進みません。教室のロッカーは、隣のクラスの誰かに頼まないと無理です。手渡ししかないのです。

けれど、なかなかチャンスがありません。とうとう6限目が終わってしまいました。彼は友人たちと4人で帰っていきます。さりげなく後をついていきましたが、コンビニに入ったので諦めました。

私は、彼が独りで下校すると思いこんでいたのです。他に3人もいるところでチョコを渡すほどの勇気はありませんでした。

「こういうことだったのかな?」 ペンギンは無表情なままでした。「家のポストに入れてこようかな。」 それでも、ペンギンは黙っていました。どうして、何が、『ハズレ』なのでしょう。

付き合ってもらえるなんて、期待していません。お洒落でカッコよくて、勉強もできて、ファンが多い有名人なのです。自分の気持ちを伝えてみたい、ただそれだけだったのです。「ペンギンは、あの人を知らないから。」 そんなふうに思って、私は溜息をつきました。

土曜日はみぞれが降って、出かけるのは諦めました。みぞれは雪に変わって少し積もり、日曜日のお昼頃にやっととけました。こんな日は何でもうまくいきそうな気がする、そんなお天気になりました。

名簿の住所をメモして、小さな紙の手提げにチョコレートとメッセージカードを入れました。ペンギンは何か言いたそうな顔でじっと私を見ていました。もう私はペンギンに何も言いませんでした。私は少し寂しい気分で家を出ました。




商店街を抜けて、駅前のバス停に向かいます。模型ショップの前まで来たら、ちょうど中から人が出てきました。クラスの男子です。そういえば、水族館の帰りにもここで見かけました。

「あれ? どこ行くの?」 「べつに、・・・ちょっとね。じゃあ。」 いいかげんな返事をして、そのまま3番乗り場に向かいました。

「団地行きのバス、次は30分あとだよ。休日は本数が減るんだ。」 「え? どうして?」 「僕、日吉団地だから。」 私の行き先と同じです。ちょっと困ります。バスには用のないフリをして、ショッピングセンターに入ってやり過ごすことにしました。

けれど、彼も同じ方にやって来ます。「乗らないの?」 「買い物に来たとこだから。もし帰るんだって、あそこに30分も立ってたくないよ。」 それもそうでした。

「今日も『ハズレ』なのかな。」 そう思っていると、彼が言いました。「あ、あのさ、あの大きな荷物、何だったの? だいぶ前だけど。」 私は思わず立ち止まりました。

「えっと、あの、そういうつもりじゃなくて・・・。」 彼は少しあせりました。私が怒ったと思ったようでした。「なんだか、すごく余裕でカッコいいと思ったんだ、あのとき。だから・・・。」

「ペンギン。」 そう言いながら、いろんなことが一度に頭の中で爆発したような感じがしました。なんて調子のいいヤツだとか、そんなヤツにカッコいいと言われて喜んでしまう自分が情けないとか、ペンギンのことを聞かれてちょっと嬉しいとか、だから今日もやっぱり『ハズレ』なんだとか。

気がつくとあまりにマヌケな答えだったので、今度は私があせりました。「あ、水族館に行ってね、ミュージアムショップで買った。縫いぐるみ。」 「もしかして、正面にでっかいエイのいる水族館?」 私が頷くと、彼は嬉しそうな顔をしました。「僕、あそこの友の会に入ってるんだ。」

そうして、なんとなくショッピングセンターの休憩コーナーに座って話し込んでしまいました。カフェテリアになっているところです。

「大水槽見上げてると、空みたいでさ。笑うかもしれないけど、あのエイに名前つけたんだ、『飛天』って。あんなふうに空を飛ぶんだろうなって。」 「うん、そんな感じだよね。じゃあ、ペンギンに名前つけた?」 「ペンギンはめちゃ好きだけど、団体だからなあ、あいつら。」

これまで特に関わったことのなかった人が、私と同じものを見て同じように『感動』していたこと。それはかなりの驚きでしたが、悪い気分ではありませんでした。もっと話をして、わかり合いたいと思いました。

授業中に居眠りして叱られていた。クラス委員に推薦されたら、妙なお断り演説をぶってみんなを納得させてしまった。他のクラスにノートを借りに行っているかと思えば、誰にもできない問題が解けてしまったりする。考えてみれば、そういう彼を4月から見てきたのでした。

それに比べて、私はあの憧れの人のことを何も知りませんでした。みんながステキだと騒ぐから、そんな気になっていただけだったのです。やっとそれがわかりました。

「ペンギン。」 私は心の中でつぶやきました。ペンギンが笑って「うむっ」と頷くのが見えたような気がしました。

「あ、何か飲む?」 彼が尋ねました。私も一緒に立ち上って、カウンターでコーラを買ってきました。トレーをテーブルに置こうとしたとき、紙袋が倒れて、チョコレートのいかにもそれっぽい包みがはみ出しました。

「今日はチョコレートの日だよね。」 彼が笑いながら言いました。

「うん。あ、よかったら、お近づきのしるしに。」 私はチョコレートの包みだけを差し出しました。ペンギンの魔法だったのでしょう、かなり平気でした。

「でも、それって、誰かに渡すのだったんじゃない?」 「ううん。ただ、買ってみたかっただけ。あてはなかったんだ。」 ちょっと悪いかなとは思いましたけど。




それから10年経ちました。ペンギンは今もいます。――魔法ですか? そうですね、今になってみればわかるのですが、あれは私の力だったのです。

「ここは勉強しておいた方がいいかな。」「ほんとうに好きなのかな。」 その答えは自分の中のどこかで出ているのだけれど、もう少し自信が足りなくて、誰かに確かめてみたい。そんなとき、私自身の心が私の問いに答えていたのだと思います。ペンギンに託して。

きっと誰もがこうした魔法の力を持っていて、それは何かのきっかけで働き出すのでしょう。夢や幻ではなくて、現実に大人になっていく一段階として。そうしてやがて、いろんなことが自分で決められるようになるのです。私はそう思います。

はい、これで私の話はおしまいです。――彼のこと? ええ、去年彼と結婚しました。彼は獣医をしています。あ、あのチョコレートのいきさつは、ずっと内緒です。


・ 魔法のペンギン ・
THE END


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