MOONLIGHT

Variation 3 夏の写真館

By Ryo Shimamura


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1.

今日も35度を超えそうだ。8月の盆前の、重い感じさえする日ざし。京都郊外の私鉄の駅前でバスから降りると、麻子はUVカットの日傘を広げた。

いつもはクルマで出かけるのだが、振休のその日、駐車の不便な街中で昼食の約束があったから、電車で行くことにした。そこで、駅まで出るついでにパスポート用の写真を撮ろうと思ったのだった。1回生の夏にとったパスポートも、ついに期限が切れる。

あの頃は、5年なんて、はるか先のことだったのに。

今度は10年使うのだから、なるべくちゃんと撮った写真が欲しかった。たしか、駅の近くに写真屋があったはずだ。学生時代にはよく自転車で通った駅周辺の道も、久しぶりだった。

平日の午前中、通勤通学の時間帯でなければ、この界隈の人通りは少ない。麻子は店や家を1軒ずつ眺めて歩いた。わずか1年と少しの間に、たたんだ店や、なくなった家。新しい建物は、以前そこに何があったのか、思い出せない。

ああ、あそこだ。

しかし、その写真屋にはシャッターが降り、張り紙がしてあった。麻子は一瞬足を止めて『臨時休業』にがっかりしたが、引き返さずにまた歩き出した。裏通りにもう1軒あったのを思い出したからだ。


2.

その写真館を見つけたのは、昔、下水道工事か何かをさけて、自転車で裏の通りに入っていった時だと思う。

煉瓦造りのクラシックな洋館。両開きの玄関扉の両側に白い木枠の窓があり、その一方の中に、お宮参りの赤ちゃんを抱いた母親や、晴れ着姿で千歳飴を持った少女の写真が飾られていた。写真に写った人の顔まで古風に見えた。

だけど、いい感じだったと思う。

その道は遠回りだったから、それきり通らなかったのだが。

当てずっぽうで角を曲がり、1本めの道に出て、左右を眺めた。それらしいものは見あたらない。それにしても、暑い。そう思いながら、麻子はまた適当に歩き出した。こちらの通りには他に通行人もいない。

なんだかこうなると、パスポート用の写真よりも、あの写真館がまだあるのかどうか、その方が重大事のような気がした。写真を撮るのは何も今日でなくてもよかったのだ。

もう少し歩いて、ジュース類の大型自動販売機が置いてある角まで来たら、運良くその建物が見えた。裏通りに面していたのではなく、さらにまた少し入ったところにあったのだった。

洋館はあの古さのままだった。ただ記憶より少し小さく感じられた。それでも、覚えていたとおり、入り口が1段高くなって、木の扉の上半分ほどは磨りガラス、真鍮のバーが左右1本ずつ斜めに取り付けられていた。写真が飾られている窓も、変わっていない。

『松田写真館』。磨りガラスに入った文字を読みながら、麻子は扉を押した。


3.

思った通り、中は薄暗い。冷房とは別の、ひんやりした感じがする。人の気配はない。

深い飴色の壁板。漆喰天井から下がったシャンデリア型電灯には、やわらかく花形に広がった乳白色のガラス製シェードが4つついている。足元を見ると、黒っぽい石のタイル敷きだ。

ああ、だから涼しいんだ。

広い土間から一段上がった板の間。正面左寄りに、白い牡丹を描いた衝立。その奥にドアがある。真ん中あたりには黒っぽい大型柱時計がかかり、その中で鈍く光る振り子が揺れている。

土間の右手に、簡素だがどっしりとしたマホガニー色の丸テーブルと椅子が3脚。その向こうの壁際には、フィルムやアルバムを申し訳程度に置いたガラスケース。その中にあるカラフルな色が場違いに感じられるほど、全体が古風だった。

自分が入ってきた方を振り返ると、額に入った写真が何枚か、窓の上の壁に掛かっている。そのうちの1枚は自分より若い男の写真だったが、何か言いたそうに笑っているその顔を、麻子はどこかで見たことがあるような気がした。

一通り見渡してから、麻子は声を出した。

「ごめんください。」

一瞬間をおいて、返事があった。衝立の後ろのドアが開き、老人が姿を現した。

「よぉこそ、おまっとうさんです。」

「あの、パスポート用の写真を撮っていただきたいんですが。」

「はあ、どうぞおあがりやす。今日も暑ぅなりそうですなぁ。」

老人はスリッパを麻子の前にそろえて置いた。


4.

「ここでちょっと待っとくれやす、支度しますよってに。」

通されたところは、がらんとした8畳ほどの畳敷きの部屋だった。座卓と座布団、隅に二つ折りにした衣桁。木枠ガラス窓の両側には変色した遮光カーテンが束ねてある。

開いた窓の一方の外には、ツタが茂った煉瓦塀が間近に見える。もう一方には簾がかかって、風にゆっくりと揺れている。外の光が、部屋を一層薄暗く感じさせた。

麻子は壁の鏡をのぞいて、額を油取り紙で押さえ、まとめ髪の前髪に櫛を入れた。ブラウスは淡いスカイブルーに白いレース襟。夏のお気に入りの一枚。

「こちらへどうぞ。」

しばらくして、老人がやって来た。磨き込まれた板張りの廊下を歩き、『写場』と書かれた引き戸を開けると、そこがスタジオだった。

古いながらも、照明器具や反射板、背景板などがそろっていた。クラシックなデザインの椅子や花台も備えてある。撮影用の照明は全て点灯され、ここには冷房が入っている。

老人は木の椅子に麻子をかけさせた。その後ろには、かすかにグレーを含んだ白の背景板がすでに用意されている。さすがに時代がかった箱形カメラではなかったが、インスタント証明写真のように手軽に撮影をするつもりはないらしく、老人は身をかがめてファインダーの中の麻子に注文を付けた。

「もうちょっとゆったりした感じで。左肩少し下げてください。顎ひいて。はい、そのまま。」

腰を伸ばし、手にレリーズスイッチを持った老人が少し困ったように言う。

「そんな硬うならんと。せっかくのべっぴんさん、いちばんええお顔で。5年か10年、使わはるんですやろ。」

その顔と言葉とにふと力が抜けて、その瞬間に、1枚。


5.

「もう1枚いきますよって。」

パスポート用の写真に?まるで誰か言ってたお見合い写真じゃない。・・・あ。そうだ、いくらか聞いてなかった。雰囲気に飲まれちゃって・・・。どうしよう。

「どこ行かはるんです? よろしなあ、若いうちは。」

「イギリスなんですけど。あ、あの、写真代、おいくらでしたっけ?」

老人は他の業者と同じくらいの、ごく当たり前の金額を告げた。それを聞いてホッとした麻子の表情を、老人は見逃さなかった。

「ああ、ええお顔で撮れましたで。」

麻子は本当に笑ってしまった。そして、老人の背後、引き戸の上に並んでいる写真に目をやって、この人たちも同じように言われたのかしら、と思った。

麻子の視線に気づいた老人が言った。

「こうやって写真撮ってますとな、そのお人の内面いうか、どないな生き方されてきたんか、わかりますのや。なんや、写真撮られるの嫌がる未開の人ら、おりますやろ、魂取られるいうて。そんなん、なんとのぉわかるような気ぃします。」

魂を取られる。今どきそう信じている人たちがいるだろうか。確かに写真には歳が出るとは聞いたけれど。写真は正直だと。それだったら有り難くないな、と麻子は思った。

しかし、考えようによっては、写真にはある時の姿が見たまま永遠に残されるのだから、その時の自分の内側も含めて、自分が紙の上に囚われたような気がしたとしても、不思議ではないだろう。


6.

「さてと、そしたら、写真の方はあさって以降やったら、いつでもどうぞ。朝10時から夜8時まで開けてますよって。」

老人はそう言って、麻子を玄関に案内した。「月曜日が休みなんと、お盆休みは13日だけですわ。他にすることゆうて、あらしませんしなぁ、年寄りの独り暮らしで・・・。まあ、お参りだけはせなあきませんよってに。」

代金を支払って外に出るとき、麻子は壁に掛かったあの写真を見上げた。その笑い顔が、さっきよりももっと何か言いたそうに見える。しかし、やはり思い出せなかった。

どこで見たのかしら、感じのいいコだけど。

再び眼の底が痛いような夏の光の中で、麻子は日傘を広げた。ふと見ると、玄関脇の窓の中に、写真と一緒に手書きの代金表が貼ってあった。

なんだ、ちゃんと書いてあったのね。

もう一度ふりかえって写真館のクラシックな建物を見上げてから、麻子は駅に向かった。


7.

電車はすいていたが、京都の中心部は相変わらず人があふれている。麻子は足早に待ち合わせのホテルのロビーに向かった。大学からの友人、綾美と久しぶりに食事をすることになっている。秋には2人でイギリスに旅行する予定だ。

まもなくやってきた綾美とホテルのランチブッフェを食べながら、やはり話題はそのことだった。

2人とも古い建築物を見るのが好きだ。綾美は構造や建築様式そのものに、麻子はインテリアデザインに興味があった。イギリスの古い教会やカントリーハウスを見て回るのが、旅行の第一目的といってもよかった。

綾美はナショナルトラストに入会しようと言う。年会費30ポンドを払って会員になれば、トラストの所有する屋敷でも庭園でも、公開期間中無料で見学できるのだ。

日本ではまだまだ一般化してはいないナショナルトラストも、イギリスでは約100年の歴史を持つ日常的な存在で、数多くの建造物、庭園、森や海岸などがトラストの所有となっている。――綾美はすでにいろいろと調べてきていた。

ほんとうに、古くてきれいなものが消えてしまうのは寂しい。できることなら、残しておいてほしい。すでに100年も前、外国で自分たちと同じことを考え、それを実行した人達に、麻子は思いをはせた。


8.

そのうちに、話が例の写真館のことになった。

「ふーん、でもいくら古いものが好きだからって、<おじいちゃん>まで? 確かに、らしいけど。」 麻子が老人の話をすると、綾美がいつもの調子でからかう。

「じゃ、すごく感じのいい男のコの写真、っていうのはどう?」

「本体は?」

「知らないけど。」

「うーん、古典的乙女チックの極致ね。まったく、一生懸命で勝ち気なくせに、へんに引っ込み思案なんだから。」

たぶん、当たっているだろう。麻子はそう思う。

「そういうの、見てる私は楽しめるけどね、うん。でも、麻子みたいにクルマが彼っていうのも、いいんじゃない?」

9.

2日後の夜7時半頃、麻子はあの駅で電車を降りた。帰りに写真を受け取りに寄るつもりで、その日は珍しく電車で出勤したのだった。クルマで来てもよかったのだが、なんとなく、また歩いてみたかった。

人通りはこのあいだよりもさらに少ない。日中より少しはマシな風を感じながら、確かここだったと思われる角で、麻子は裏通りに入った。そして、見覚えのある大型の自販機のところで曲がったのだが、あの洋館は見あたらない。

ちょうど犬を連れた中年の女性が通りかかったので、写真館の場所を訊ねた。次の角だった。麻子は礼を言い、裏通りをもう少し歩いて、さっきと同じ型の自販機を見つけた。

なーんだ、一瞬こわかった、あの洋館消えたのかと思った。

写真館は、ちゃんとそこにあった。夜にほのかに浮かび上がる赤煉瓦。優雅な白い石の半円形ペディメント。鈴蘭型の玄関灯がまるい黄色みを帯び、扉の磨りガラスは光の板になり、その輪郭がやわらかい。メルヘンの挿し絵のような眺めだった。

この前来たときには気づかなかったが、建物の向こう側に、道に面して2台分の駐車場があった。1台、白いクルマの鼻先が見えている。

同じだ。でも、まさか<あの>クルマってことは・・・・・・。

そう思いながら、麻子は真鍮のバーを押して中に入った。


10.

「こんばんは。」

白い牡丹の衝立の向こうに出てきたのは、あの老人ではなかった。背の高い、茶色の髪の青年だった。右眼のあたりにふわっとかかる前髪。ゆったりとした白いTシャツの袖を、肩までまくり上げている。麻子の顔を見て、わずかに何か言いたそうな眼をした。

思わず麻子は振り返って、後ろの壁を見上げた。なぜあの写真に見覚えがあると思ったのか、わかった。この青年に会ったことがあったのだ。壁に掛かっているのは、何年か前の写真らしい。

「あの。あ、いらっしゃいませ、なんでした?」

そう言う声を聞き、麻子は確信した。

やっぱりさっきのクルマ・・・、この人に間違いない。

「すみません、本田といいます。パスポート用の写真をお願いしてあったんですが。」

「本田さん、ですね、ちょっと待ってください。」

青年は衝立の向こうに引っ込み、またすぐに戻ってきた。

「どうもすみません、まだみたいなんですよ、今日の予定の分。うちのじーさんが調子悪くて。明日の夜には必ずできると思います、ほんとうに申し訳ないんですけど。」

「そうですか、じゃあ仕方ないですね。来週にでもまた来ます、急ぎませんから。おじいさん、お大事に。」

そう言いながら、切り出そうかどうかと麻子は迷っていた。でも覚えてくれているだろうか。やっぱり勘違いではないだろうか。そして結局、黙って帰ることにした。


11.

「あ、ちょっと待って。」

青年が少しあわてたように声をかけた。

「あのぉ、人違いかもしれないけど、前に一度、会いましたよね・・・?」

「あ、それじゃやっぱり? 私も、自信がなかったものだから・・・。」

「あはは、あの、フタごと溝に落ちた! やっぱりそうだったんだ。」

青年の、ひたすらうれしそうな笑顔。麻子もうれしかった。不名誉な失敗のことを言われたのに。

「本当に、あの時はありがとうございました。気が動転していて、ちゃんと御礼を言ってなかったような気がします、ごめんなさい。」

厳密に言うと、その一件で麻子は<フタごと>溝に落ちたのではなかった。

12.

その年の1月、友人のところへ遊びに行く途中だった。切り通しの道で対向車と行き違うため左に寄せてバックしたら、車体の左後ろがガクッと下がった。

溝に落ちた?そんなバカな、確かにフタがあったはず。

麻子がそう思っている間に、向こうのクルマは行ってしまった。

エンジンを止めて降りて見てみると、肝心のフタはそこから3枚分ほどがコンクリートではなくて木製になっており、踏み破って当然だった。土砂と落ち葉をかぶっていて一見そうとは見えなかったし、第一そこだけ木の溝ブタが置いてあるなどと、普通は思わない。

あっちがへたくそだったから、こんなことになったのに。ひどいじゃない。

くやしいやら情けないやらで、めまいがしそうだった。しかし、なんとかしてクルマを引き上げなければならなかった。JAFのロードサービスを呼ぼうにも、その日に限って携帯を忘れてきていた。誰か通ったら停まってもらうしかない。自分に腹が立った。

電話を借りられるところまで歩いて行こうか。そう思っていると、後ろからやって来た1台のクルマが、通り過ぎてから左に寄せ、5メートルほどのところまでバックして停まった。

麻子のと同じメーカー、同じ型、色も同じく白の3DOORハッチバックだが、マフラーを換えてあった。それに何か感じが違うと思ったら、サイドエアダムがついている。

「あーあ、やっちゃったなぁ。大丈夫ですか?」

降りてきて、そう言いながらドアを閉めたのが、この青年だった。


13.

「やっぱり、持ち上げた方がいいな。」

青年は左後輪の状態を見るとすぐにそう言い、自分のクルマに戻ってテールゲートを開けた。カーゴルームに固定した大型のコンテナボックスに様々な工具が入っているのが見えた。

「あの、ありがとうございます、何か私、することがあったら・・・」

「ああ、だいじょうぶです。すぐですから。えっと、サイド引いてありますよね?」

「あ、はい。」

作業用手袋をはめ、道具類を持って戻ってきた青年は、麻子の返事を背中で聞きながら、右後輪の前後に輪止めを置いた。

そうしておいて、今度は溝のところにかがみ込み、木のフタを1枚はずして、割れて溝に落ちたフタを拾い上げた。そして、プラスチックのケースから取り出した油圧ジャッキを溝の底に据えた。

ダークグレーのセーター、紺と白のチェックの襟がのぞいている。地面に片手と膝をついて作業している青年の姿に見とれている自分が恥ずかしくなって、麻子は何か言わなければならないような気がした。

「すみません、ほんとうに。」

「溝が乾いてて、よかったですよ。平坦だし。」

車体は難なく真っ直ぐに戻った。もう少し持ち上げて高さを調整すると、いったん立ち上がり、輪止めを1コはずす。

「じゃあ、エンジンかけて、右にいっぱい切ってから前へ出て。あ、オレのクルマにぶつけないように。」

真面目とも冗談ともつかないその言い方に、他の時だったら腹が立つのだろうけど、と思いながら、麻子は指示通りにクルマを出した。

コトン、と、段差を越える感覚。助かった。すぐに左に寄せて、前のクルマに近づいた。


14.

麻子がエンジンを止めて降りた時には、青年はすでにもう1コの輪止めを回収し、ジャッキをケースにしまっているところだった。木の溝フタは元の位置に戻し、割れた方をその上にきちんと重ねて置いてある。

「本当に、ありがとうございました。助かりました。どうしようと思ってたんです。」

「よかったですね、大したことにはなってないと思いますよ。下側、擦れたとこの錆止めだけはしといた方がいいですけど。」

青年はそう言って、まるで助かったのが自分のクルマだったかのように、うれしそうな顔をした。が、すぐにクルマに戻って道具を片づけ始めた。

「じゃあ、これで。気をつけて。」

バン、とテールゲートを閉じ、御礼の言葉をくり返す麻子に、照れたような、しかし感じのいい笑顔で答えると、青年はすぐに運転席のドアを開けた。

頭を下げて見送る麻子の姿をミラーに映して、白いクルマはすぐに行ってしまった。

冬の木々が風に鳴り、コンクリート擁壁の上に残った落ち葉が降ってきた。ふと気がつくと、寒い。コートなしの薄着で立っていたのだから当然だった。


15.

白馬のナイト様。

普段なら、そして誰か他人が言ったのなら、きっと吹き出しただろう。しかし、麻子はシートにおさまり、どうしようもなく幸せな気分でエンジンをかけた。

だが、走り出してすぐにがっかりした。名前も聞いていない、ナンバーも覚えていなかった。もっとも、ナンバーを覚えていたからといって、そこからその持ち主を突き止めるなどという積極的行動が自分にできようとは思えなかった。

あのクルマ、同じじゃなかったんだ。買うときにカタログで見た、4WDターボの、あれだ。

さっきテールゲートを閉じたとき、右ブレーキランプの上に<CYBORG>のロゴが入っているのが見えた。

それにしても。カノジョと逢いに出かけるところだったのだろうか。黒のコーデュロイでは膝の汚れが目立つ。ちゃんと払っておかなければ、カノジョにそのわけを訊かれるだろう。そしてその結果、「どうして溝になんか落ちるのかしら、」きっと、そんなふうに笑われる。

それだけは絶対にイヤだ。

それでも、麻子がそのあとしばらくの間幸せな気分でいられたのは、溝に落ちたせいであることは確かだった。

16.

「あれ、ものすごく何度も御礼言われましたけど、」そう言って、青年はまた笑った。

「そうだったかしら。あ、そういえば急いでらしたんでしょ、あの時。申し訳ありませんでした。」

麻子は気になっていたことを、それとなく聞いてみた。

「別にそういうわけじゃなくて・・・。下心があってやったと思われるのがイヤだったんで、それでさっさと引き揚げたんだけど。顔見てから助けようって決めたわけじゃないんですよ、ほんとに。」

冗談なのかお世辞なのか、よくわからない。

「だけど、仲間に話したらさんざん言われちゃいました。もったいないとか、カッコつけだとか。自分らだって絶対黙って逃げるに決まってるのに、人のことだと思って。」

「人助けしておいて、逃げるんですか?」

「ほら、月光仮面とかみたいに。見たことはないけど。」

笑いながら麻子は思った。ずっと前から知っているみたいな気がする。あの時から、何度もこうして会って話をしてきたような感じがする。

「私、クルマが気になって仕方なかったんですよ、あなたのじゃないか、って。でも、一度も見かけなかったですけど。」

「それはどうも、すみませんでした。」

「あら、でも、私の方が何も訊かなかったんだし、第一、自分の名前も言わなかったんですよね。」

「あはは、それもそうだ。」


17.

2人は土間の椅子にかけた。どっしりと重い木の椅子もテーブルも、少しひんやりして気持ちがよかった。

「じゃ、あらためて。松田勇次です。本田さん、でしたっけ。」

「本田麻子です。」

「ふーん、でも残念だったなぁ。C83Aは台数多くないから、このへんで見かけたらたぶんアタリなんだけど。オレ、2月中に外国へ行っちゃったもんで。」

「外国って?」

「インドの北の方、地図で見るとかなりヒマラヤに近いあたり。写真を撮りに。」

「長い間?」

「そう、だな・・・。」 少し遠い視線。何か、言いたくないような。しかしすぐに元の調子に戻って話を続けた。

「よくある言い方だけど、古いものっていうか、近代化で消えていくようなものって、好きなんです。向こうの人たちにとっては、昔ながらの生活ってのは不便で大変で、だから昔のままであってほしいと思うのは、こっちの身勝手なんだけど。」

麻子はナショナルトラストの話を思い出した。電気もない辺鄙なインドの山村とイギリスの領主館とでは、もちろん比べようがないのだが。しかし、失われていくものに対して抱く郷愁には、麻子も共感できた。


18.

「そうですね。私も古い建物見るの、好きなんです。ここも。」

「この家、そのうちに取り壊されるんですよ、低層マンションが建つ予定で。庭があって土地はけっこう広いから。じーさんはケアつき老人マンションに入ることになってる。」

「え? じゃ、写真館はどうなるんです?」

「じーさんも気の毒なんだけど、親父はもういないし、オレも結局・・・・・。」

時を刻む古い時計の音が、あとを引き取った。それ以上立ち入ったことは訊けなかった。麻子は黙って、天井から下がった優美な花形のシャンデリアを見上げた。

「きれいでしょう、それ。この家は大正時代の初め頃に建ってるし、そのシャンデリアだってオレたちよりずっと長生きなんだけど。でも、どんなものでもいつかは終わって、消えてしまうんだなあ。人間だって。」

「ずいぶん、寂しそうですね。」

「まあね、自分の家だから。仕方ないけど。」

「保存はできないのかしら、移築するとか。」 麻子は辺りを見回した。つややかな飴色の壁板が、電灯の光をやわらかく映している。

「そんな由緒ある建物ってわけでもないから。古い道具やなんかは売れるだろうけど。」

「そうなんですか・・・。残念ですよね、こんなステキな洋館。」

そう言いながら勇次の方を向いた時、ちょうどぴったり視線が合った。穏やかな眼に引き込まれそうな感じがして、麻子はどぎまぎした。

「あ、そういえばずいぶんおしゃべりしてしまったみたいですね、ごめんなさい。写真はまた取りに来ます。」 麻子は反射的にそう言って、立ち上がりかけた。

「クルマ?」 「いえ、バスですけど。」

勇次も椅子から立って、当然のように麻子と一緒に外に出た。


19.

家ごとの小さな玄関灯と、ぽつりぽつりと設置された街灯の弱々しい蛍光灯。裏通りにそれ以外の明かりはなく、曲がり角の自販機の照明がまぶしいほどに感じられた。

本通りに出ても、どの店もすでに閉まっていて、さすがに街灯の数は裏通りよりも多く、その光も強かったが、わびしいことに変わりはなかった。自分のヒールの音がひと気のない通りにひびくのを少しきまり悪く感じながら、麻子は勇次の親切に心の中で感謝した。

勇次は生成のチノパンツのポケットに右手をつっこんで、麻子が黙っているからか、何も言わずに半歩前を歩いている。ゆっくりというより、そっと静かに歩いているという感じだった。

何か言おうと思っているうちに、駅前の広場に着いてしまった。ちょうど麻子の乗るバスが、待機場からバス停に出てきたところだった。

「どうもありがとうございました。」 少し急ぎ気味に言う麻子に、勇次は少し首をかしげて、「じゃあ。」と一言こたえた。並んでいた乗客に続いて、麻子も乗り込んだ。

バスが発車し、広場を回って府道に左折するところで、ちょうどバス停が見えた。しかしそこに勇次の姿はなかった。駅前の広場はすぐに建物の向こうに見えなくなった。


20.

窓の外を見たまま、麻子は小さく溜息をついた。

白い服を着た長身の勇次は、まるで天使様だった。翼を広げて飛んで行ってしまったのだとしても不思議ではない、そんな感じがする。

白い・・・か。

そういえば、勇次の顔も腕も白かった。しかし、インドに長くいて、しかも写真を撮って歩いて、日に焼けないなどということが、あるだろうか。インド=日焼けというのは、偏見なのだろうか。

そう考えていると、少し離れた席の会話が耳に入ってきた。女性2人で、どうやら1人は高齢、もう1人は中年といった声の感じだ。

「−−−−お気の毒どした−−−−写真屋さんのぼんが−−−−うちの孫と中学が−−−−。」

「−−−−ほな、おじいちゃん、ずっとお独りで−−−−。」

とぎれとぎれに聞こえてくる話。麻子は思い出した。そういえば、この前あの老人は「独り暮らし」だと言っていた。じゃあ勇次は別のところに住んでいるのだろうか。

「−−−−初盆で−−−−。」 どうやら2人の会話は別の話題に移ったらしかった。

21.

日曜の夕方、麻子はクルマに乗って写真を受け取りに行った。角を曲がったら、駐車場に勇次のクルマが見えた。麻子は少し期待した。

今日も会えるといいけど。

クルマを降りて、自分のと勇次のと2台ならんでいる前で、麻子は何か変な感じがした。勇次のほうには大型のエアロバンパーがついているから、本体のデザインは同じでも、表情が違って見える。もちろんそれは当然だが、その違いではないような気がした。

しかし麻子はあまり気にせずに通り過ぎ、写真館の扉を押した。

麻子の声に応えて出てきたのは、老人だった。

「ああ、こないだのお嬢さん、出来てますよって。」 愛想よく言い、いったん引っ込んで、すぐにまた現れた。

「はい、これですな。」老人は写真入れの中の写真を取り出して見せた。それは、麻子が日頃思い描いている自分の理想像に近かった。やはりそれを見ると、写真に不思議な力があると思う人たちがいたとしても、当然な気がした。

「ほな、よお気ぃつけて行かんとあきませんで、外国は。事故やら泥棒やら、なんや物騒ですよってなぁ。」

それは国内にいても同じなのだが、まるで自分の孫に言って聞かせるように注意する。その真剣な口調が、少し面白い。

「ええ、どうもありがとう。」そう言う麻子を、壁に掛かった勇次の写真がやはり何か言いたそうな笑顔で見下ろしていた。

写真の出来はうれしかったものの、勇次に会えなかったことに心を沈ませて、麻子は外に出た。

たった2回会っただけの片想いなのだから、これで仕方ない。綾美が言うように自分は相当に引っ込み思案で古いのだと、あらためて麻子は思った。


22.

夕焼けが広がっていた。夕陽を正面に受けて、赤煉瓦が透明感をおびた赤銅色に輝いている。麻子は建物を見上げ、本当にきれいだと思った。

これがなくなってしまうなんて。

駐車場にならんだ2台の白いクルマは薄茜色に染まっていた。麻子は見比べて、そして、さっき見たときになぜ変な感じがしたのか、わけがわかった。

勇次の方は、車体全体が一様にうっすらと土埃をかぶっていた。フロントガラスにワイパーの痕も全くなかった。どんなに洗車をしないユーザーのクルマでも、ワイパーの払拭範囲だけは汚れが薄いものだ。

サイドのガラスも、一面に白い。まるで廃車置き場のクルマのように。

五角形デザインのアルミ。自分のより扁平率の高いタイヤ。そこまで眺めて、ホイルの内側に気づき、ハッとした。ブレーキディスクが、真っ赤に錆びていた。

しゃがんでよく見ると、錆が盛り上がるように厚い。これでは確実に、後輪のブレーキパッドはディスクから離れないだろう。

麻子は自分のほうのホイルに目をやった。スポークの間に、磨かれたディスクが光って見える。

何日か乗らないと錆が浮くことはあるけど・・・。

ここは塩ビの屋根があって、雨が直接当たらない。きっと、かなり長い間放置してあったのだ。麻子は立ち上がって、リアの方からもう一度勇次のC83Aを眺めた。

これでは、走れない。

このクルマの持ち主はすでにこの世にいないのかもしれない。麻子は唐突にそう感じた。おとついの夜の、勇次の白い姿が思い出された。

生きてはいない人。そうだとしたら、辻褄が合うような気がした。

まもなくその存在を終えようとする洋館が見せた幻だったのか。あの写真が死者の霊を引き留めていたのか。それとも、このクルマに魂があって、亡き持ち主に代わってそれが・・・・・。いずれにせよ、何か不思議な力が働いていたのだと考えれば。

さよなら、幽霊さん。

麻子は心の中でつぶやきながら、土埃で白いテールゲートのガラスを、人差し指でなぞった。


23.

「オレのクルマに落書きしないように。」

ふいに背中で声がした。麻子は喉まででかかった叫び声を何とか押さえた。

おそるおそる振り向くと、勇次が立っていた。スーパーの買い物袋を下げ、書店の紙袋を抱えている。真面目な顔はしているが、笑いをこらえていることは明らかだった。

『すきでした ゆう』で、指のあとが止まっている。『ゆうれいさん』最後まで書けてなくてよかった。麻子はそう思ったが、恥ずかしいことに変わりはなかった。

「もうすぐ整備工場からお迎えが来るんですけど。」

「ごめんなさい、消します。」 自分の方が消えてしまいたかった。

「あ、待って。」麻子がポシェットからハンカチを取り出そうとするのを、勇次はあわてて止めた。「ちょっとこっちに来て。」

勇次はオロオロする麻子をせき立てて、それにしてはゆっくり歩いて、写真館に入った。そして、買い物の荷物を手にしたまま衝立の奥に引っ込んで、すぐにまた現れた。荷物の代わりにカメラを持っている。

「世紀の証拠写真、撮ってくるから。」

「あ、あの、そんな・・・。」 麻子が止める暇もなく、きわめつきのうれしそうな笑顔を見せて、勇次は外に出ていった。

残された麻子は指の汚れをはじき落とし、時計の振り子が夕陽に当たって規則正しく金色に光るのを、ぼんやりと眺めていた。


24.

まもなく、勇次が戻ってきた。左の手のひらが真っ黒に汚れている。手でガラスをこすったのだ。

「おとつい退院してきてから気にはなってたんだけど、洗車できなくてよかったんだなあ、結果的に。でも、あれ、どうして過去形? オレの気持ちは現在形ですけど。」

右手にカメラを持ち、汚れた左の手のひらを上に向けて軽く持ち上げたまま、勇次は少し真面目な眼をして尋ねた。

「あの、それは・・・・・帰ろうと思って・・・・・。」

妙な答えだったが、勇次は都合よく解釈してくれたらしく、軽くうなずいて言った。

「今年は今まで最低最悪のツキだったけど、でも、これで一気に取り戻したってわけなんだ。」

「え?」

「インドで、とんだ災難でね。最後になって、撮影してるときに崖から落ちて。両足とも複雑骨折で、1ヶ月のつもりが帰るに帰れなくなって。」

麻子は驚いて勇次の足に目をやった。「大丈夫、なんですか?」

「ちゃんと歩いてるよ、まだ変な感じはするけど。」 勇次はそう言い、少し首をかしげて、にっこりした。

「どさくさに紛れて機材も行方不明になっちゃったし。それでやっと帰ってきてから、再手術やリハビリやなんかで、またずっと入院してたんだ。」

「ずっと・・・・・。」

「だから、個展開くはずだったのも、キャンセル。おまけに、その間にクルマも動けなくなってて。踏んだり蹴ったりだよ。なんだかもう自分でも全面的にカッコ悪い話で。」

「カッコ悪いなんて・・・。」 あとは何も言えない。

これからずっとこの笑顔を見られるのかしら、そう思いながら、麻子は勇次の汚れた左手を見ていた。そして、やはりこの古い建物が何か不思議な力を持っていたのだ、と考えていた。

「あ、ごめん、手を洗ってくるから、ちょっと待っててくれる?」 麻子の視線に気づいた勇次はまた少し首をかしげてそう言い、板の間に上がって、白い牡丹の衝立の向こうに消えた。


25.

時を刻む古い時計の音だけが、聞こえる。どっしりとしたマホガニー色のテーブルに、窓の影が伸びている。

麻子はシャンデリアを見上げた。乳白色の花形シェードが、最後の夕陽に照らされて、ロゼのワインを満たしたグラスのように色づいている。

ふと目をやると、あの写真が何か言いたそうな笑顔で、見下ろしていた。


Variation 3 ・夏の写真館・
THE END



・ LIST ・

 



8.ナショナルトラスト(イギリス)
1895年に有志3人によって活動が開始された民間団体。1907年にナショナルトラスト法を成立させている。<美しい、あるいは歴史的に重要な土地や建物を国民の利益のために永久に保存する>ことを目的とする。

たとえばイギリスの田園風景になくてはならないカントリーハウス(壮大な領主屋敷)は、その個人所有者に多大な税と維持費の負担を強いる。経済的理由により、土地が細分化され、開発用に売却されたり、館が取り壊されたりすることもある。しかしトラストが所有権を得ることによって、そのような事態を未然に防ぎ、歴史的建造物や景観を守ることができるのである。
http://www.nationaltrust.org.uk/

10.ペディメント
ここでは、窓や出入口の上の壁面につけられた装飾のこと。勾配のゆるい三角形や櫛形が多いが、半円形のものもある。ここに彫刻などが施されることもある。

15.グレード違い。麻子のクルマは<FFでターボなし>ということ。勇次の方は排気量同じで<フルタイム4WDターボ>。

 


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