MOONLIGHT

・ 課長伝説 (帰郷) ・

By Uncommercial Traveler


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 「俺の23年はいったい何だったんだろう・・・・」

 金沢一の繁華街香林坊を眼下に見下ろす山下ビルの10階の社長室でその部屋の主である山下はふとつぶやいていた。昼過ぎから激しくなり出した雪に道路を行く車の姿も途絶えがちになっていた。突然東京でのサラリーマン生活に終止符を打って逃げるようにこの北陸の城下町に戻ってきてから1年半が過ぎていた。高校卒業と同時に一介の浪人生となって両親の反対を押し切って東京に出て、盆と正月にさえもほとんど寄りつかなかった山下にとってここはもはや故郷ではなかった。

 1年の浪人生活の後、何とか東京六大学のうちの一つに入学し、人並みに4年で卒業した山下は、折からの不況の中やっと自動車部品を製造する大東京工業という名前だけはひどく立派な中堅メーカーに潜り込んだ。入社研修で早々に学生気分から頭を切り換えた山下はそれなりに頑張った。営業職ではあったがものを作るという仕事には実家の家業である貸屋業(今風にいえばテナントビル事業)にない新鮮さとやりがいのようなものがあった。

 順調に出世の階段も昇っていった。山下が望んだわけではなかったが、いつの間にか同期でトップを走り何年か先の先輩も追い越して、その階段はもう役員の椅子が見えるところにきていた。閨閥と学閥が支配する社員500名足らずの同族会社でそのどちらにも属さないものとしては異例の出来事であった。

 経営会議の一員となってからは上職者といえども間違っていると思えば理論と数字を基に一歩も引かない山下の攻撃に会議の中で立ち往生して立場をなくした部長連中の中にはあからさまに中傷する者も出てきたが、今までの会社の体質をよしと思っていなかった者の中からはそれなりに支持者も生まれていた。それはいつしか派閥と呼んでもおかしくない規模になっていた。

 「あれは一つのきっかけに過ぎなかったのかもしれないな・・・・」

 山下は回転椅子を回して窓から目をそらし、冷めてしまったコーヒーカップをデスクにおくとインターホンに手を伸ばし総務を呼んだ「今日はもう何もないかね」「はい特にございません」創業者の長男でほとんどすべての株式を所有しているというだけの社長である山下にする仕事は出社してきて、幾ばくかの書類に印鑑を押すともうほとんど何も残されていないのが常であった。業務の実際は安定した組織の中で日々変わらずに流れていた。

 「結局はどちらにしても同じことだったかもしれないな・・・・」

 ある日山下は自分の前に続く階段を昇り続けることをためらう気持ちを自らの中に発見し、少し驚いた。うまくいかなかった会議のせいか、残業続きで疲れているせいか、最初は気にもとめなかったその思いは次の機会には、やや大きくなっていた。その思いが押さえきれないぐらい大きくなってきた何回目かの時父が倒れた。10年前に母が死んでから1人暮らしを続け社長を続けていた父であったが数年前に患った癌の再発であった。父の会社の総務から山下のもとへ入った連絡はその時すでに危篤であった。羽田から小松を経て数年ぶりに帰った金沢はその日も雪であった。

 総合病院の集中治療室ですでに手の打ちようもなかった父は山下には何も語らずに3日後に息を引き取った。普段から疎遠であった親族を集めて執り行われた葬儀の後で人々が去ってがらんとした実家に訪ねてきたのは父の子飼いの総務課長と信託銀行の行員であった。「お父様の遺言を私どもが執行させていただきます。」はじめて顔を見る信託銀行の行員は山下の現在の心境を無視していろいろなことを事務的に語った。

 1週間の臨時休暇を終えて東京へ戻った山下は少しの間考えて父の事業を継ぐべく身辺の整理をつけると退職願を出した。すでに階段を昇り続けることに疑問を感じていた山下にそれほど未練はなかったが、社の方はそうでもなかった。もはや山下の存在は社にとって一個の歯車と呼ぶにはあまりに大きくなりすぎていた。「君がいなければ我が社はやっていけない」、「君が育ててきた若手を見捨てるつもりか」説得とも恫喝ともつかない話が社長室で何度も繰り返され山下はついに折れた。

 「ここにも俺を必要としている人々がいる」

 無理にもそう考えて東京に踏みとどまった山下にしばらくすると会社はまた違う顔を見せた。やがて新年度が近づいて、営業部は会社の将来を支える重要な部署だと繰り返したその口から聞いた新年度の人事異動の内容は一瞬耳を疑うものであった。山下の所管する営業課は部下9名中4名の交代でその4名はことごとく新人であった。「君ならどんな困難でも乗り越えてくれるだろう」異動を伝える執行役員の声を山下は聴いていなかった。全社的にリストラが進む中で人員のやりくりがつきにくくなってきているのは山下も認めるところであったが、ここしばらくの人事は主流派に甘く山下のような外様には殊の外厳しいものであった。昨年の夏の定期異動で3名、その前の第1営業課と第2営業課の統合時に4名、スタッフが入れ替わるたびに自らの身を削って営業部の体制を支え、それでも成績を伸ばしてきた山下にとって今回の人事は受け入れがたかった。

 「これが組織のやり方か・・・・」

 思い返せば癌で入退院を繰り返し、このまま営業部に迷惑をかけるのが忍びないと1年半以上の休職期間を残しながら自ら社を去った営業1課長に対して社はあっさりとそのポストを削り営業1課と2課を統合したのだった。統合後のごたごたが一段落して中国地方の病院へ、もうそんなに長くないという噂の元1課長を見舞い、ことの次第を告げた時に見た悔し涙の気持ちが今、山下にも少しわかったような気がした。

 山下にとってすべてがどうでも良くなっていた。今まで23年間にわたって営々と積み上げてきたサラリーマン生活はいったい何であったのだろう。会社のために、それは直接自分のためにであり家族のためにでもあった。若い時には全く疑問を感じなかったその論理は今組織運営の現実の中で色あせていた。世の中は自然に正しい方向へ向かうのではなくその方向は権力が左右するのだという当たり前のことに山下は46歳になってようやく気がついた。6月に入って、父の会社の後を無理に後を頼んだ専務が脳梗塞で倒れたとの連絡を受けると改めて辞表を出し、長年住み慣れた会社を去った。

 いくつかあった送別会の話もすべて断り突然東京を去った山下に対していろいろな憶測が飛んだのはやむを得ないことであった。「経営執行部と対立して辞めざるを得なかったのだ」「社が経営的に危なくなってきて山下は社を見捨てたのだ」いろいろといわれたがそのどれもが全くの的はずれではなかったが、核心をついてはいなかった。山下派と目された人々にも多くを語らずに人々の前から姿を消してしまった。



 翌朝、山下は深く積もった雪の中8時過ぎの特急「はくたか」で金沢を離れた。越後湯沢で上越新幹線に乗り継げば東京は昼過ぎの到着となる。月に一度情報収集という名目で東京へ出張していた。何の情報を集めるのかと訊かれれば返答に窮するところであるが誰もそんなことは訊きはしなかった。実際のところこれは山下にとっては月に1度の息抜きであった。金沢市を中心に20を越すオフィスビルやテナントビルを所有運営する「且R下ビルヂング」には山下が直接手を下さねばならない仕事はほとんど無かった。その気になれば無いわけではないかもしれなかったが、今の山下には問題なく流れている状態に敢えて手を出す気力というものが失われていた。

 地元の財界とのつきあいもそれなりにあったが、30年近く金沢を離れていて全く知る人もいないそれらの集まりは山下にとって苦痛でしかなかった。金沢へ戻って半年が過ぎ、単調な毎日の生活を持て余してきた時、総務課長を呼んで東京へ情報収集に出る旨を告げた。「先代も時々東京へ行かれておりました」意外な返事を残して退った総務課長はしばらくして「精算済み」のゴム印が押され、報告欄に斜線の引かれた出張稟議書に山下の決裁印を求めると出張旅費と達筆で墨書された封筒に入った10万円を置いていった。その時から山下の東京詣では毎月第1週の中頃に欠かさず続けられていた。

 何もかもがいやになって去ったはずの東京ではあったが、そこで暮らした30年近くの歳月は忘れてしまうにはあまりに重すぎた。1泊2日で訪れる東京はそれなりに新鮮で北陸の片田舎に埋もれようとしている山下に一時幻想を与えてくれた。それは具体的にはとるに足らないもの、会社勤めの間に昼食に通った定食屋やラーメン屋であったり、営業に回った周辺都市の下請けメーカーの工場であったりした。

 昼過ぎに東京に着いた山下はいつものように山手線に乗り換えてかつて勤めていた会社からそう遠くないラーメン屋に立ち寄った。学生時代に北海道をよく旅した山下は旭川で気に入ったラーメン屋を見つけていた。数年前に偶然、会社からそれほど遠くないところにその店の支店を見つけてから時には部下を連れてよくそこに通ったものだった。今も月に一度東京に来ると昼食にはそのラーメンを食べるのが習慣になっていた。

 かつての会社からさほど遠くはなくても山下の訪ねる時間帯は昼休みをはずれているので会社の人間と顔を会わす心配はなかった。しかしその日はどうした都合かドアを開けた山下の目は奥のテーブルに席を占める大東京工業の女子社員の制服を見つけていた。幸いにも直接は知らない顔ばかりだったのでそのままカウンターにつき、いつもの醤油ラーメンを注文した。ラーメンができるまでの時間、新聞を広げていた山下の耳に入ってきた女子社員の会話は意外にも他ならぬ山下に関わるものであった。

 「今度の営業課長最悪ね、昨日なんか昼休みにうちの課に突然入ってきて『昼休みは無駄な電気は消しましょう、みなさんが無駄遣いしていると私たち営業がいくら稼いでも足りません』て言って電気消していくのよ、私頭きちゃった」

 「そうそう、うちの係長も言ってたけどこの頃いちいち稟議書にクレームが付いて大変だって、文章がおかしいの、見積書が不備だの、だいたい何で資材部の仕入れの稟議に営業課長のはんこがいるんだってぼやいていたわ」

 「前の課長の方が良かったわね、全社朝礼とかでは厳しいこと言ってたけどあまり細かいことは言わなかった感じね、なんか急に辞めちゃって郷里へ帰ったとか聞いたけどやっぱり上の方とうまくいかなかったのかしらね」

 「今度の課長は専務の親戚らしいわよ、以前から営業課長を狙ってたって噂よ、成績は上がってるらしいから鼻息荒いのよね、先月回ってた『全社節約要領』とか見てたら気が滅入っちゃうわ、」

 「あの、社員はエレベーター使うなとか言うやつ? うちの会社って同族会社だから仕方ないのかもしれないけどなんか普通の人が少ないのよね、これから先どうなってくのかな」

 「そんなこと私たちが心配しても仕方ないじゃない、それよりもう戻らないと昼休み終わっちゃってるんだから、それこそ営業課長にでも見られたら会議の準備で遅れたって言っても通用しないわよ」

 3名の女子社員が騒々しく店を出ていくのと同時に運ばれてきたラーメンを前に山下はふと考え込みそうになるのを振り払って箸を進めた。食べ終わって駅への道を戻りかけた山下は無意識のうちに会社のある方角を振り返った。「営業成績は伸びているのか・・・」あのスタッフでどうやったらそれが可能なのか、現状維持さえも難しいと考えていた山下にはそれは考えもつかないことであった。

 「やめておけ、あんた無しでも会社は動く」随分以前に週刊誌でそんなサラリーマン川柳を見て一般論としては理解しても自分は違うはずだとどこかで考えていた。それは社を辞めてからも山下の心にくすぶっていた。会社から山下へ連絡はなかったし、山下の方から連絡を取ることもなかったが、辞めてから今日まで営業部は大変なんじゃないかなという気持ちはいつもどこかに潜んでいた。それは自分が営業部を率い、会社の将来さえも左右する立場にあった時代、過去の栄光への絶ちがたい未練だったのだろうか。

 その日の午後を美術館で過ごした山下はホテルをキャンセルして小松行きのJAS最終便に空席があるのを確かめると早めに羽田へ向かった。18時を少し回った羽田ターミナルは夕方のラッシュを迎えようとしていた。搭乗までの1時間ほどを山下はいつも出発ロビーにあるビアレストランで一杯飲みながら過ごすことにしていた。

 サラリーマン時代から出張の時にはここで飲んで出かけるのが習慣になっていた。取引のあった広島の自動車メーカーへの出張は、下請けの身としては一概に楽しいものではなかったが、それでも今思うと本社を離れる数日間というのは開放感のようなものがあったのだろう。その前祝いのような気分で夕方社を出ると羽田へ直行し、ここで2、3杯のジョッキを空けてから最終便に乗り込んだ。

 2杯目のジョッキとソーセージの小皿をセルフサービスのカウンターで受け取って席に戻ろうとした時レストランの外の通路を通りかかった男と目があった。「山下課長じゃありませんか」一瞬の沈黙の後男は片手をあげた。男は山下が営業2課長だった時営業1課にいた西山だった。営業課の統合前に総務へ転出し山下が辞める時は確か係長になっていたはずである。

 「ひどいですよ、みんなに何も言わずに消えちゃって、課長が辞めた後山下派はバラバラになっちゃいましたよ。」

 「山下派なんてのは君たちの幻想にすぎんよ」それには答えずに西山は自分もビールを取りに向かった。1年半ぶりの再会を祝してジョッキを合わせ一気に半分ほどをあけると西山は名刺を取り出した。「今はこんなことをやらされています。」差し出された名刺には「大東京工業苫小牧工場設置準備室長」の肩書きがあった。「苫小牧って、まさかあの苫東工業団地じゃないよな」「そのまさかですよ」「あれはとっくの昔に中止したんじゃなかったかな、だいいち開発計画自体が清算されるという話じゃないか」「社長の一声ですよ、北海道工場は社長の積年の夢でしたからね、今回苫東プロジェクトが清算されるにあたって完成済みの用地がただ同然で払い下げられると言うことになって急に決まったんですよ。」「今の社にそんな余力は無いんじゃないか、もっとも私が辞めてから成績が伸びているそうだから、わからんが」「なに馬鹿なこと言ってんですか、粉飾ですよ、粉飾、営業部のね、だいたいこの苫東の情報をどこからか仕入れてきて社長に吹き込んだのは山下さんの後任の営業課長ですよ、成功したら営業本部長で役員だそうですよ」「しかし、君には悪いがとても成功するとは思えんがね、下手すれば本社も共倒れだよ」「だめなのは、わかるやつにはわかっていますけどね、社内で口に出すことはタブーですから、この間若手でちょっと飲んだ時にも山下さんがいたらこうはならなかったかもしれないなって愚痴言ってるのがいましたよ、自分のできないことを人に期待しても始まらんと言っときましたけどね」

「でも何で辞めちゃったんですか・・・・」2杯目のジョッキを飲み干した後そうつぶやいてしばらく絶句していた西山は北海道進出とその失敗、その後の責任問題、どう考えても無事にすみそうもないこれから先のサラリーマン人生を計っていたのだろうか。ジョッキを置くと時計に目をやり荷物を持って立ち上がった。「そろそろ行きます、向こうは雪かな、無事降りられるといいんですが、もし苫東がだめになったら課長の会社で拾ってくれませんか、ビルの清掃でも何でもやりますから・・・・・いや、これは冗談です・・・・、それでは失礼します」足早に去ってゆく西山の後ろ姿を見ながら山下は組織の中に身を置く個人の非力さとやるせなさを思った。

 その時々に与えられた立場に置いて最善を尽くす、これが山下の主義であった。社を出て1年半経って聞いた"山下の方が良かった"という女子社員の声や"山下がいたらこうならなかったかもしれない"という若手の声は山下が積み上げてきた心許ないものではあるが何かに対する評価の声と受け止められなくもなかった。ひとりが欠けても組織は一見変わらずに動いてゆくが、その一人という歯車はどれも同じではあり得ない。その回り方によっては未来の方向も後に残るものも変わってくるのではないだろうか。そう考えると山下にとって23年のサラリーマン生活はあれはあれで良かったのかもしれないとも思えてきた。

 すでに20時発小松行き最終便の搭乗が始まっていた。ゲートを通って明るい羽田空港のロビーを振り返った山下は、しばらくは東京へ来ることもないかもしれないと思った。


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