MOONLIGHT

・ 課長伝説 ・

By Ryo Shimamura


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1.

薄曇りの風が、ようやく蕾のほころんだ桜の枝を震わせている。その下にはひと気のないホームが寒々と伸び、柵を背にしてベンチに座っている中年の男は、あと何分かでやって来る列車に乗る数少ない乗客の一人となるのだろう。

男は膝に乗せた時刻表からふと目を上げた。ローカル私鉄の駅前に陣取った選挙カーの方から、候補者の演説が聞こえてくる。なにか、その中の言葉が暗号のように心に入り込んだような気がした。

東北の田舎町。通勤通学の時間帯を過ぎ、さびれた街並みがようやく動き始める頃。男の位置からは見えないが、カラフルな幟や候補者当人の白手袋は、地味な景色の中で浮いた存在となっているだろう。

「・・・ですから、大学を誘致すれば町が活性化するというのは、過大な期待に過ぎません。大学の誘致のために町が負担する費用、これは皆さんの税金です。採算の見込みがない大学を作る前に、もっと他に、することがあるはずです。介護、医療、その他の高齢者の方々に対する福祉や、上下水道やゴミ処理施設といった環境の整備。今まで税金を納めてこられた皆さん自身のために、やるべき事があるはずです。」

「・・・このままでは、この町はつぶれてしまいます。」候補者は繰り返した。「今のうちに何とかしないと、このままでは、この町はつぶれてしまいます。」

――そうだったのか――。男には先ほど何かが自分の中に入ってきたような気がしたわけがわかった。かつて自分が何度も真剣に繰り返した言葉と同じだったのだ。「このままでは、この会社はつぶれてしまいます。」

ため息をつきながらベンチの背に両腕をかけ、男は桜の枝を見上げた。――あれから何年になるのか――。視線を線路に移すと、彼方の白い山並みを背景にして、黒い田畑とリンゴの樹の中に列車が見えた。

男は時刻表をバックに入れ、代わりにカメラを取り出して、まもなくホームに入って来たディーゼルカーの写真を撮った。雪の季節はとっくに過ぎているのに、朱色と淡灰色に塗り分けられた車体がくすんで見えるのは、この薄曇りの空のせいだろうか。男は無表情のまま、カメラをバッグに収めた。

降りてきた年寄りたちが、熱心に語らいながら男のそばを通り過ぎて行く。その早口の方言は、耳にした瞬間、どこか異国にいるのではないかと思わせる。平日でこの時間帯、まだ観光客の姿は少ない。待合室から出てきた数人の乗客もほとんどが地元の高齢者だった。


2.

やがて発車したディーゼルカーは、素朴なエンジン音と単調な振動にのって、のどかな風景の中を走る。黒っぽい畑土。立ち並ぶ林檎の樹の幹は太く灰色にねじれ、枯れた骨のような枝を広げている。暗い緑色の生け垣。赤さび色や青緑のトタン屋根、鈍色<にびいろ>の瓦屋根。こちらが動いているからか、まるで窓の外は別の時間がゆっくりと流れているかのような感じがする。

昨日とは逆向きに過ぎていく景色を眺めながら、男はさっきの続きを思い出していた。――あれから、5年――。

――辞めて3年、か――。男が会社を辞めると言った時、妻は反対しなかった。自分が働いているから、経済的には困らない。「ただ、」妻は言った、「私の時間を使わないで。」

その意味は男にもよくわかった。だから、3年前の年度末に退職して以来、かねてから実行したいと思っていた全国私鉄の完乗をめざし、月に一度、数日は家を空けるようにしてきたのだ。出張と称して旅に出る男に、妻はいつも笑って言った。「目覚まし時計がいてくれないと、ちょっとつらい。」

帰れば旅行記をまとめ、写真を整理し、あるいは模型を作り、要するにそれらを「仕事」として、それはうまくいっていた。学生時代の趣味を復活し、時間に束縛されず、しかも今やある程度は経済的にも制限されずに、楽しめる。――理想の生活だったんだが――。

昨日はこのローカル私鉄の終点まで行って歴史の跡を訪ね、引き返してあの町を歩き、1泊した。いつもの旅と同じパターン。何が不都合というわけではない。不満があるわけでもない。しかし、男はここしばらく、「何か違う」という漠然とした思いに取り憑かれていた。それに、この一連の旅が終了してしまったら、その後はどうするのか。

ディーゼルカーはいつのまにか次の駅に停車していた。あらたな乗客がパラパラと車内に散り、ドアが閉じる。軽いアイドリング音が力強いうなりに変わり、音がひときわ高くなると車体が震え、ゆっくりと動き出す。そしてふたたび窓の外には別の時間が流れ始めた。

――だが、問題は今夜の宿だな――。昨日やって来る時には気づかなかった景色をカメラに収めながら、男は考えた。行程にそって宿泊地の見当はだいたいつけてあるが、旅館は決めていない。万が一ダメなら夜行列車に乗るという手もあるが、それは避けたかった。学生の頃とは違って、体力も気力も低下している。

次の行き先は、現在休止中のレールバスだ。この路線はまもなく廃止される。かつて、この路線に乗ろうと休暇届けを出したのだが、仕事の都合で休暇自体が実現しなかった。しかし、その時すでにその線の存続は危ぶまれていたものの、廃止を現実のこととして考えてはみなかった。いつか暇な時に行けばいいと思っていた。――それに、仕事の都合なら何でもあきらめていたからなあ――。


3.

男の勤めていた会社は、関西に本社のある少しは世間に名を知られた機械専門商社だった。三十代半ば、派閥争いの妥協の結果で課長のポストについた。それから3年近く経って――プロジェクト、か――。

ある会議で、自社の将来に対して日頃抱いている危機感を自由意見として述べた。それを聞いた役員の一人が、チームを作って現状分析と改革案をレポートにするよう、男に命じた。期限は1ヶ月。男は気心が知れた有能な若手3人に声をかけた。

明治時代に設立された会社は時代と共に発展し、それ相応の地位を築いていた。しかし首脳陣はその『伝統』の上ににあぐらをかき、『古い体質』に気づかないでいる。しかも上辺だけの『改革』をめざして無計画な業務拡張に手をつけてしまっていた。

一見安泰に見えるこの会社が抱えている危機を社員全員に伝え、意識改革をしなくては、生き残れない。その信念のもと、彼らはできる限りの努力をし、そして1ヶ月後、レポートは完成した。彼らは自分たちのこの仕事を「プロジェクト」と呼んだ。

レポートは冊子として配布され、彼らは自分たちの会社の生き残りを切に願って、訴えた。まず管理職会議で、そして社長を含む役員会で、さらに、本社の一般社員を集めての講演会、支社社員を対象とした講演会で。「このままでは、この会社はつぶれてしまいます。」

しかし、プロジェクトのメンバーが昇進して妬みを買ったこと以外、現実には何も変わりはしなかった。各人に努力と辛抱とを要求する改革案は、結局は、「講演」として聞くにはよいが実施されては迷惑なものにすぎなかった。改革の理念は賞賛しながら、上層部にはそれを実現する確固たる気概もなかった。

男はふと馬鹿らしくなった。みんな、いったい何を考えているのか。会社がつぶれて困るのは、自分たちではないのか。会社の生き残りは自分たちの生き残りであることが、わからないのか。

そうして、ついに会社を辞めた。プロジェクトから2年、41才になっていた。「前半戦終了だ。」男はそう思った。


4.

駅の間隔が今までよりも短くなった。線路は大きくカーブを描いて向きを変え、ディーゼルカーはもう1回停車してから、終点の、JRと接続する駅に到着した。

列車の発車までには充分すぎる時間があった。男はいつものように街をぶらつき、模型屋と古本屋を探す。本当に診療をしているのだろうかと思われるような、古色蒼然とした木造の医院。トタンのペンキがはげ落ちた、八百屋の白黒文字看板。何を商っているのかわからない、眠ったような商店。

時の流れとは無縁のような空間。しかし現実には、やっと見つけた模型店には今時の子供向けの商品だけが幅を利かせ、男にとっての掘り出し物など望むべくもないのだった。

――早めに昼を食べておこう――。歩き疲れた男は、手近のラーメン屋に入ることにした。入り口には「営業中」と下手くそな字で書いた紙が、ぞんざいに貼り付けてある。

店内は外見のとおり、古くて暗い。他に客はいない。デコラ張りのテーブルに、赤っぽいビニールレザーの椅子。油色に変色した品書きの短冊を見上げるまでもなく、男はラーメンを注文した。

やがて出てきたラーメンは、昔食べた「中華そば」を思い出させる懐かしい味がした。――上出来だ――。男は傍らに乱雑に置かれた新聞を引き寄せ、麺をすすりながら読み始めた。が、すぐに箸を止め、丼を押しやった。そう大きくはない見出しが、あの会社の倒産を伝えていた。

――やはり――。自分の予測が正しかったことを誇る気持ちも、ざまを見ろとあざける気持ちも、なかった。起こるべき事が起こった。ただそれだけだった。それでも、その短い記事を2度3度と読み返さずにはいられなかった。そうして、ラーメンを食べてしまうと、男は店を出た。列車の時刻が迫っていた。


5.

その夜の宿は山間の小さな温泉にするつもりだった。かつて出張に来た時に支社の社員に案内してもらったことがあり、たしか東北本線の鄙びた駅からそう遠くはなかったはずだ。男はレールバスを見るために降りたホームから、以前泊まったのとは別の旅館に予約の電話を入れた。

学生時代、青森へ向かう夜行列車でこの線を通った。ちょうどこのあたりで朝になり、固くなった体を伸ばしていると、薄いもやの向こうに、レールバスの丸っこい車体がゆっくりと動いていた。その景色が絵葉書のように頭の中に残り、今見ている光景よりも現実味を帯びているかのようだ。

風雨にさらされた跨線橋の羽目板、錆びた線路、読む者のない駅名標。駅として完全な形を保ちながら、廃線跡よりも沈んだ色をしていた。休止してからしばらくの間、休日には車両が外に出されていたそうだが、今は車庫に置かれたままだ。全てが、動かない。ただじっと、最期を待っている。

かつて休止の日が近づいた頃、そして最後の運転日、人々は争ってこのレールバスに乗った。だがそれは、この路線の存在に何も影響を与えなかった。やがて来るべき廃止の日がやって来て、そして、ただ終わるのだろう。

男は必要な写真を撮り、朱色濃淡の老朽車体をもう一度眺めると、JRのホームに戻った。そしてしばらく待って南に向かう特急に乗り、ローカルに乗り換えて、温泉の名のついた駅で降りた。


6.

迎えのワゴン車に乗り込んだのは、1人だけだった。宿の前は石だらけの浅い川。通された部屋の窓の下には乾いた畑が広がっている。ガラス張りのロビーから部屋に至るまで、安普請の廊下が曲がりくねり、段差をこえて、何度かの建て増しを時代順に遡っていた。

一風呂浴びて休んでから夕食に行くと、極端に広い大広間に、ぽつりぽつりと席が準備されていた。泊まり客は数組のようだ。男から数メートル離れた隣の卓には、出張らしい3人組。浴衣の袖をまくり上げ、早くもビールで盛り上がっている。――出張サラリーマンは元気がいい――。

仕事の話が一段落すると、上司や会社の方針を熱心に批判する。どこの社員でも同じだ。たいていの場合、たとえ本気で腹を立てていても、切羽詰まってはいない。

そんな彼らがいつも以上に気になるのは、昼間のあの新聞記事のせいだろう。

男は、別にその世界に戻りたいとは思わなかった。しかし、自分の方が人から羨まれる立場にあるにもかかわらず、彼らの方が生き生きとしているように感じられるのは、否定しようがなかった。――まったく、ご苦労なことなのに――。

ビールを飲み、平均的な旅館料理を平らげてしまうと、男は部屋に戻った。


7.

窓ぎわの古道具めいた椅子にかけ、時刻表で明日の予定を確認しながら、いつかうたた寝をしていたらしい。ふと気づくと、携帯電話がバッグの中で鳴っている。ごく限られた人数にしか番号を知らさず、非常連絡用に使っている。一瞬、男は長期入院中の母親の「万が一」を思った。しかし意外にも声の主はかつてのプロジェクトチームの一員だった。

「お久しぶりです、課長。こんな夜遅く、申し訳ありません。実はですね、もうご存じかも知れませんが・・・。」挨拶もそこそこに、用件に入る。かつてプロジェクトチームの副リーダーとして期待以上の働きをしたこの人物は、今、管理部門の課長となっていた。

会社の倒産について、そこに至るまでの経過、そして上層部の無策と無能、身勝手。それらの話を男は黙って聞いていた。「逃げたんですよ、自分たちだけ。責任も取らずに。」

――逃げた・・・ああ、やつらなら、そうだろう。だが、俺も逃げたんだ――ふと男の心が話からそれた時、電話の声が大きくなった。「ですから、戻ってきてください。お願いします。今建て直しの指揮がとれるのは、課長だけなんです。」

「・・・そうか、事情はわかったが・・・少し、考えさせてくれ。」男は独り言のように返事をした。半分は夢だったことにしたい気分だが、着信履歴はさっきの話が現実だったことを示している。――考えたって、どうしようもないんだが――。とりあえず、もう一度風呂に入ることにした。


8.

次の日はさらに南下して、城下町を歩いた。春めいた陽射しの中、有名な桜の巨木はちらほらと咲き始めていた。石を割って立つ、どっしりとした黒い幹。このたくましい幹も、儚げな花をつけるのと同じ力で成長してきたのだ。そして今もなお。少し怖いような気持ちを感じつつ、男はしばらくの間、青空を透かす繊細な枝先を見上げていた。

その朝、大広間でそっけない和食を食べながら、男はとりとめのないことを思い巡らせていた。前夜の続きだった。電話のことについては、そう、自分がいなくても彼らは何とかするだろう。

だが、自分はこれからどうするのか。 「何か違う。」いつも漠然と感じていることが、妙にはっきりと意識された。だが、それは何なのか。何が違うのか。

そうしているうちに例の出張組がやって来て、健康的なにぎやかさで朝食にとりかかった。――文句を言いながらも、何とかやっていくんだろうな――。そう思いながらそちらをちらりと眺め、男は大広間を出てきたのだった。

桜のあとは酒蔵を訪ね、明治時代の建築物をいくつかめぐり、古い商家の土塀を眺め、写真を撮った。土産には南部鉄の風鈴、老舗の品だ。城跡の公園は、一種のノルマといったふうに、ぶらぶら歩いて通り抜ける。

男は市街の中心部を一周して、駅に戻った。中に入って案内表示を見ると、あと数分で普通列車が発車するところだ。これは途中までしか行かないが、そこで乗り換えればいい。秋田まで、急いで行く必要もなかった。

新幹線コンコースへの上がり口あたり、一目でそれとわかるビジネスマンが足早に通り過ぎ、あるいはグループで立ち止まる。「・・・早々に連絡しますから。」 「週明けには何とか・・・。」 「帰って検討を・・・。」 その光景も、耳に入ってくる言葉も、初めてのものではない。それなのに、何か新鮮な印象を受ける。――なぜだろう――。だが男は在来線の一番遠いホームに急いだ。


9.

空席の多い車内で、男は駅で感じたことを思い出していた。あと1つで何かわかりそうな、そんな時に似た感覚だった。

車窓に山が迫り、トンネルをいくつか抜けたあと、列車は湖に近い駅に停車した。着いたホームの反対側にもその向かいのホームにも、人が立っている。この駅で、新幹線の列車が行き違うのだ。

こちらの停車時間は30分以上ある。しばらくすると、男はカメラを取り出し、バッグを肩にかけて立ち上がった。

下り列車の1番線到着を告げるアナウンスが聞こえてきた。続いて、上り。「2番線に秋田新幹線『こまち20号』東京行きが参ります。停車駅は・・・」 「・・・終着東京には18時32分に到着いたします。」

――今日中に関西まで行ける時刻だな――頭の隅でそう思いながら、男はホームの端で列車を待った。

やがて、ファインダーの中に東京行きの『こまち』が近づいてきた。白く輝くその車体は、時が止まったような沈んだ景色に心を置いていた男に、「未来」を思わせた。

男はゆっくりとカメラをおろした。

列車は男の横を通り過ぎてなめらかに停車し、ドアが開いた。降りる人を通してしまうと、そう長くない乗客の列が着実に短くなっていく。

男はそれを眺めていたが、ふいに駆け出し、そして、すでに誰もいなくなった乗車口に飛び込んだ。

息をつく男の背中でドアが閉まり、白い列車は静かに動き出した。


・ 課長伝説 ・
THE END


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