MOONLIGHT

・ 飛 夢 (him) ・

By Ryo Shimamura


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1.

メールの着メロが鳴った。恭介からだ。「ごめん。システムダウンでとうぶんかかりそう。遅くなるけど、行くから。」

「しかたないなぁ。」 夕暮れ時、自分のマンションに向かって歩きながら、奈々子はつぶやいた。出張先から報告のために出社したら、トラブルの真っ最中だった――たぶんそんなところだろう。

恭介は仕事に対しては一世代かそれ以上前の感覚を持っていて、付き合って一年近くになる今まで、一度も仕事時間中に電話やメールをしてきたことがないし、奈々子からのも「お断り」していたから、このメールは、よほど申し訳ないと思っている証拠というわけだ。

今日は彼女の誕生日で、「プレゼントがあるから」と、昨夜彼が嬉しそうに電話してきた。それに、ちょっと驚かせてやろうと思って、昨日ヘアスタイルを変えた。彼が遅くなっても、とにかく今日会えるのだから同じことなのだが、やはりガッカリといえばガッカリだ。

しかしそれは彼のせいではない。それに、普段のおっとりとした雰囲気とは違う、仕事に対する彼の全力の真面目さが格好良く思えて、彼女は好きだったのだから。


2.

初夏の空が、見ていると目眩がしそうなくらい不思議な色合いで暮れかけている。その色に染まった目であたりを見回すと、子供のころ見た景色が夢になって現れたような感じがする。

影が長くのびて、それがどこまでも伸びていくのではないかという不安。夕陽のほうを見ると、街が逆光の中で遠近感を失い、自分が絵の中に置かれたような錯覚。角を曲がって建物の陰に入ればモノクロの世界で、ただ空だけが彩色されている。

いつもとは違う景色を発見して、奈々子は少し得したような気分になったが、自分のマンションの前まで来ると、今度は別のことが彼女の心をとらえた。

<だれだろう。> 中学生くらいの、ひとことで言えば、感じのいい少年だ。賢そうな顔つき。全体に育ちの良さを感じさせる、柔らかい雰囲気。マンションの住人かもしれないし誰かを訪ねてきたのかもしれないのだから、特段気にする必要はなかったのだが、それでも彼女は気になった。まるで、その少年が自分を待っていたように思われたのだ。

少年は、近づく奈々子を見て、にっこりと笑う。それが自然な感じだったので、彼女も「こんにちは」とほほえみ返してその前を通り過ぎ、ガラスのドアを開けてピロティに入った。突き当たりにあるエレベーターのボタンを押し、振り返ってドアの向こうを見た時には、そこに少年の姿はなかった。


3.

奈々子は自分でも不思議だったが、5階でエレベーターを降りて、自分の部屋の前にさっきの少年が立っているのを見ても、さして驚かなかった。何か、前から決まっていたことのような感じさえした。

「キミ、だれ? 私に用なの?」

少年は黙って、自分より少し背が高いだけの奈々子を見上げるようにしている。その穏やかな表情を見ていると、彼女はこの少年を前から知っているような気になるのだが、しかしやはり心当たりはないと思う。

しばらく考えていたが、通路に立ったままというわけにはいかないから、彼女は鍵を取り出し、そして、これもまたなぜか当然のように少年と一緒に玄関に入り、すでに暗くなりかけた室内の明かりをつけた。

「ずいぶん速く階段を上がってきたのね。やっぱり私のこと、知ってるんだ。でも、ごめんね、私、キミが誰だかわからないのよ。」 奈々子がそう言っても、少年は少し首を傾げて笑顔を見せ、あとは黙ってあたりを見回しているだけだ。

<悪いコじゃなさそうだけど、恭介が来たら変に思われちゃう。――ああ、そうか。> 彼女は思いついた。「恭介の親戚。従兄弟かな? この住所、聞いてきたのね、そうでしょ?」 少年は返事をしなかったが、彼女はそうしておくことに決めた。


4.

<恭介の夕食はいらないわね。――でも、このコはどうするかしら。> 奈々子は時計やイヤリングをはずし、手を洗い、とりあえずいつものように紅茶を入れようと、キッチンに立った。

そのあとについてきた少年は、冷蔵庫を見てちょっと驚いたような表情をした。彼女が学生時代から使っていた小型のものを買い換え、一昨日から使い始めたところだった。極端な大型ではなく、確かにミントブルーの色があまりないタイプだが、壁のクロスと釣り合いがとれていて、突飛に見えるわけでもない。

<よくわからない。> そう思いながら、奈々子は紅茶を入れてダイニングテーブルに持っていき、椅子をひいて、少年にかけるように言った。

「食べる? ごはん前だけど。」 彼女はクッキーの缶を開けて、少年の前に置いた。「好きなの、取っていいわよ。」 しかし、少年はにっこりと笑うだけで、紅茶にもクッキーにも、手をつけようとはしなかった。

<へんなコ。> 奈々子はそう思ったが、少年は無意味に笑ったのではなくて、もてなされて嬉しいらしいことが、よくわかる感じだった。<遠慮なの?>

<たぶんこのコ、食べないだろうな。> 夕食のことだ。ちょっと考えてから、奈々子は冷凍のお好み焼きの箱を開け、電子レンジに入れた。数分経って、半分に分けた皿を少年の前に置き、「食べる?」と訊いてみたが、やはり結果は思った通りだった。

「じゃ、私一人で食べちゃうからね。いい?」少年はうなずいた。しかし、見られているのはどうも落ち着かない。<ああ、そうだ。このあいだ恭介が持ってきた、昔のアニメのビデオがあったっけ。>


5.

ソファにかけた少年がアニメに熱中しているのを眺め、お好み焼きを食べながら、奈々子は夢を見ているような気分になっていた。見知らぬ少年と二人でいて、しかもなにかそれが当然のような。いつかどこかで見たことのあるような。夕方見た景色と同じ感覚の、不思議な絵の中にいるようだった。

奈々子がお好み焼きを食べ終わり、洗濯物を片づけたり部屋を整理したりしている間に、ビデオが終わった。<考えてみればこのアニメ、私たちがこのコくらいの頃に流行ったんだっけ、10年も前だ。> 彼女は、今度は新聞の番組欄をソファの前のテーブルに広げて、少年に見せた。

少年は壁の時計に目をやり、奈々子も昔観た覚えがあるスペースものSFを指さして、彼女の顔を見上げた。彼女はリモコンを取り上げてTVに切り替え、きっと恭介は自分の所で録画予約しているだろう、と思いながら、始まって10分ほど経った映画を一緒に観ることにした。

映画の画面を見ている少年は楽しそうで、その表情がとてもよかった。<こうして見ると、なんとなく恭介に似てるんだ。やっぱり従兄弟ね。>


6.

あらためて観るその映画は結構おもしろく、奈々子も時間を忘れて最後まで付き合ってしまったが、まだ恭介はやってこない。

「おうちの人、心配してない?」 そう尋ねても答えが返ってこないことは、もうわかっている。人が来ているのに入浴というわけにもいかず、かといって少年は話し相手にならず、所在なさに、奈々子はパソコンの電源を入れた。

新着メールが1件。しかし残念ながら恭介からでも友人からでもなく、プロバイダからのお知らせだった。普段あまりネットに関わっていないから、誰かに聞いたとか話題になっていたとかいうのでなければ、ぜひとも覗いてみたいページもない。

ふと少年のほうを見ると、CMばかりのTVをまだ眺めている。<そうだ。> 彼女はさっきのアニメのサイトを検索してみた。いくつかある中で絵のきれいなサイトを見つけると、少年を呼んだ。「見たい番組ないんなら、こっちに来て、ホームページでも見ない?」

<少なくとも学校に設備はあるはずなんだけど・・・> 奈々子の横に立った少年は好奇心いっぱいの表情で、彼女が操作する画面を見つめている。自分で好きなところを開けるように勧めてみたが、少年はわずかに後ずさりしてしまい、そのかわりにメニューや選択ボタンを指さして、彼女にページを開けてもらうことで満足しているようだった。

<高速のケーブルにしておいて、よかった。> ネット利用のあまり多くない彼女にとってはさほど必要ではなかったのだが、恭介の意向をいれて、最も速度の高い接続に契約を変更してあった。そのおかげで、次々とページを表示しながら、この見知らぬ少年に対してちょっと得意な気分になっている。彼女はそんな自分が可笑しかった。


7.

そろそろ11時になろうとしていた。<このコはソファで寝てもらおう。> 奈々子がそう考えているとき、玄関のチャイムが鳴って、鍵の回る音がした。彼だ。

「ああ〜、疲れた。遅くなって、ごめん。――あれ? なんか雰囲気違わない?」 玄関に出た彼女の顔を見て、恭介がいつものように少し照れた感じで笑いながら言った。

「いかにもくたくた、って感じねえ。お疲れさま。」 彼がここにやって来て、自分を見るとそんなふうに笑顔を見せるこの瞬間が、いつも奈々子には嬉しい。「さすがにわかるよね。びっくりした?」 緩いウェーブにしていたセミロングの髪をストレートに戻して、前より明るい栗色にした。彼女は自分でも、このちょっとした変身が気に入っていた。

「うん。」 そう答えた恭介は、ずり落ちたわけでもないのに眼鏡に手をやり、あいまいな表情で少しのあいだ彼女を見て、しかしすぐに靴を脱いで上がりながら紙袋を手渡した。中にはリボンをかけた箱が入っている。「あ、これ、お土産兼プレゼント。」
「ありがとう。何かな。――あ、そうだ、従兄弟のコが来てるわよ。」

「いとこ?」
「夕方からずっと待ってるのよ。中学生かな、無口だけどかわいいじゃない、あのコ。」
「俺、いとこの中じゃ一番下なんだけど。」
「じゃあ、甥とか?」 そう言う奈々子の頭の中には、ある光景が夢のように浮かんでいた。


8.

LDに入ると、その光景が現実のものになっていた。

無人の部屋。アニメヒーローのイラストが表示されたディスプレイ。

「ほんとうなの。今まで、一緒にホームページ見てたのよ。その前は、TVでSF映画観てたんだから。」
「ふーん・・・。」 恭介はディスプレイに目をやり、しばらく何か思い出そうとしているようだったが、腑に落ちない顔をしながらも、それでもウソだとか夢だとか決めつけることはせず、「ちょっと待ってよ。顔洗うからさ。」と言って、洗面所のドアを開けた。もちろん、そこにも誰もいない。

奈々子はその間にパソコンの電源を落とし、夢を見ていたのだろうか、と考えていた。<でも、それにしては・・・。>

「何か飲むものある?」 眼鏡をかけ直し、タオルを持ったままキッチンに入っていった恭介は、新しい冷蔵庫を見つけ、しげしげと眺めて言った。「この冷蔵庫・・・。」 
「おとついから。――その色、そんなに変?」 あの少年の驚いたような顔が思い出された。

「いや、変なんじゃなくて・・・。そうか、そうだったんだ。」 恭介はやさしい夢を見ているような眼差しを奈々子に向けている。
「ねえ、何なの?」
「――うん。とにかく。」 恭介は嬉しそうな顔でミントブルーの冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出し、奈々子はグラスを2コ、リビングのテーブルに置いた。
「何か食べる?」
「いいよ、寝る前だから。」


9.

半分くらいまで一気にビールを飲んだ恭介はグラスをテーブルに置き、ちょっと遠い景色を見るようにして、L字に置いたソファのもう一辺に座っている奈々子の方に体を向けた。

「小学校の高学年から中学生くらいかな、ときどき夢を飛ばしたことがあったんだ。」
「夢を、飛ばす・・・。」
「白昼夢っていう感じ。学校とか塾とか、そんなことでイヤになったんだろうけどね。反抗するとか、さぼるとか、器用なことができなかったから。」
「うん、そういうの、わかる。」

「その夢っていうのが、必ず少し未来に飛んでいくんだな。後で実際にそこに行ったりして、『ああ、ここだったのか』って思ったこともあった。」
「そういうこともあるかもしれないけど、でも、夢が飛ぶ、って――夢を見るのとどう違うの?」

恭介はテーブルのグラスに手を伸ばし、ビールの残りを飲んで、いたずらっぽい笑い方をした。
「夏休みに、いとこの家族が北海道から帰ってきて、伯母さんが『向こうで恭介にそっくりの子を見て、びっくりしたよ。』って言うんだ。――ほんとだよ。富良野だったけど、伯母さんに見せてもらった写真、景色もあたりの様子も、みんなが着てた服とか、俺が夏休み前に夢で見た通りだった。

「現実逃避、だね。居心地のいいところにだけ飛んでいくんだから。でも、最後に飛んだ夢が、それがどこなのか、どうしてもわからなくて――そのうちに、飛ぶ夢じゃなくて普通の夢だったんだと思うようになったけど。」

奈々子は、そんな現実離れした話がすんなりと受け入れられるのを奇妙だとも思わずに、少年が髪をなびかせて不思議な色合いの空を透き通るように飛んでいく様を、思い描いていた。

「だんだん記憶が薄れて、でも優しくしてくれた女の人のきれいな髪とか、冷蔵庫が見たことのない色だったとか、それと、アニメのホームページ。そんなことはずっと覚えてた。ほら、10年前はインターネットもまだ全然だったろ? TVみたいだけどTVじゃなくて、いろんな物が次々見られて、感動だったんだ。――こんなに遠くまで飛んでたんだな。」

「私が夢を見ていたんじゃなくて、恭介の夢だったのね。」


10.

奈々子は、見比べるように少年の顔を思い出してみた。華奢なツーポイントとはいえ、眼鏡があるのとないのとでは、やはり感じが違う。「ね、ちょっと眼鏡はずしてよ。」
「なんだよ。しょっちゅう間近で見てるだろ?」 恭介がとぼけた顔で言う。

<雰囲気違うでしょ、そういうときは。> 奈々子はそう言いかえすのをやめて、代わりにビールを一口飲み、そして、ふと気になったことを訊ねた。
「ほんとうに、ここが最後なの? ほかのところに飛んで行ったりとかしてない?」

思わず真剣な顔になった奈々子を見て、彼が怪訝な顔をする。「なんだ?」
「――だから、誰かほかの・・・。」

「ああ、そういうことか。」 意味がわかると、恭介はちょっと嬉しそうな真面目顔になった。

「ほんとうに、ここが最後。ほかは海とかテーマパークとかだったしね。それにだいたい、思春期までの専売特許だろ?そういうの。これからだって、あるわけないさ。」
「うん。」

<でも、夢が飛ばなくても・・・。>


11.

「あ、ほら、それ開けてみて。誕生日、おめでとう。」
「ありがとう。ケーキやワインは、明日ね。」
奈々子が包みを紙袋から取り出し、リボンをほどくのを、彼は満足そうに眺めている。

「これ・・・!」 箱の文字は読んだが、ふたを開けてみて、彼女はあらためて目を見張った。ロイヤルコペンハーゲンのティーポットと2客セット。自分が前から欲しかったものだから、「高かったでしょう」と言う必要もない。

「割るなよ、ずっと二人で使うんだから。」 ソファに横になり、腕で頭を支えながら、恭介が何気ないふうに言った。
「ほんとうに、ありがとう。」 

奈々子は彼の今の言葉を心で繰り返しながら、ティーセットを箱から取り出し、薄い紙をはずして、ソーサーとカップ、そしてポットを揃えてテーブルに置いてみた。ふんわりと軽い硬さ。ゆったりとした白に、懐かしいブルー。

彼女が幸せな気持ちで読んでいた小さな説明書からふと顔を上げると、彼はもう腕枕で眠っている。

「ほら、フレームがゆがんじゃう。」 奈々子は彼の頭を少し動かして、眼鏡を外した。
「ここだったんだなぁ。」 少し目を開けた彼はひとこと言って、ふわっと笑い、すぐにまた眠り込んでしまった。
<ここ、あなたの『夢』が寝るはずだったのよ。>



奈々子は、ベッドルームから持ってきた軽い羽布団を、そっと恭介にかけた。

<・・・飛んで行かないで。>


・ 飛  夢 (him) ・
THE END


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