MOONLIGHT

・ 情報配達人 ・
The Secret Deliverer

By Uncommercial Traveller


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山下は中央電機東京本社別館の8階にある自室のドアを閉めるとエレベーターへ向かった。背後でいつものように電子ロックの下りる音が聞こえた。この8階のフロアーには山下の自室以外には資料室と倉庫しかなく、一般社員の立ち入りは厳しく制限されていた。エレベーターは地下2階で八重洲地下街とつながっている。山下はJR八重洲口へは向かわず、地下鉄と京成電車を使って成田空港へ足を向けた。

今回の出張先は青森支社である。羽田からJASの国内線を使えば前後を入れても3時間の旅である。しかし去年の弘前支社への出張に使ったこのルートはもう使えなかった。山下は成田から国際線接続の千歳便を選んで、北海道から青森空港に入る予定を立てていた。


2007年、21世紀になって飛躍的に発達したコンピュータ情報ネットワークは市民生活や企業活動に大きな変革をもたらした。日本の隅々まで行渡った光ファイバー網によって全国どこにいても情報の入手と発信は同じ条件で行えるようになっていた。全国に散らばった支社はネットワークで結ばれ、あたかも1つのビルの中のようであった。各企業はあえて地価の高い東京に本社機能を集中する必要がなくなり、それぞれが最も効率の良い配置を求めて一気に地方分散が進んだ。このことは必然的に地方への投資を促し、わが国の地域経済に良い影響を与え、ひいてはバブル崩壊後15年近くにわたった長期の経済低迷から脱出する契機となった。

しかし近年、その高度情報化社会に不安の影が忍び寄ってきていた。それは前世紀末から今世紀のごく初期にかけて世界的規模で蔓延したコンピューターウィルスとはまた異なる脅威であった。多分に愉快犯的性格の強かったウィルスと異なり、それはネットワーク上の企業秘密情報の組織的入手と転売という、いわば産業スパイ的性格を持つものであった。

情報化社会を危うくしようとしていたコンピュータウィルスに対して摘発者は全世界への挑戦とみなし、終身刑を含む刑罰を課すというきわめて厳しい態度で全ての国連加盟国が臨んだネットワーク情報保護条約の批准以降、ウィルスの被害は影を潜め、人々は安心して情報化の波に身を任せていった。

何事も起こっていないはずであったが、やがて一部の人々は漠然とした不安にとりつかれはじめていた。それは例えば何重にも保護されているはずの個人宛メールが何者かによって先に開封されているような感じがするといった最初はごく些細なことであった。それは単なる思い過ごしのはずであった。2005年のネットワーク情報保護条約の発効後はこの種の犯罪は起こりえないはずであった。

しかし漠然とした不安は杞憂ではすまなかった。ある電機メーカーでは画期的な新製品の発表の前日にライバル社にほとんど同じ製品を発表され、ある大手スーパーでは極秘裏に計画した出店計画を進めようとしたらすでにライバル社によって用地買収が終わっていたり、そのこと自体は内部の情報漏洩者による産業スパイ事件として新しいことではなかった。しかし、頻発したその他の事例に共通しているのはどのように調べても内部犯がつかめないことであった。

やがておぼろげにわかってきたのは、これは決して個人や小グループの犯罪ではなくて、きわめて優秀な技術者を集めた大規模な組織による計画的な裏のビジネスの可能性であった。情報ネットワークの利用者でしかない各企業に犯罪者たちと同じ土俵で自らの身を守る力はすでに失われていた。しかしそのまま放置することは企業の存亡に関わることであり、ひそかに自衛策を講じだした。

当初暗号化や複数のダミーの機密情報を流して混乱させるという手法もとられたが、最終的には極めて原始的な方法に落ち着いていった。人が運ぶのである。重要な情報はなんらかのメディアに納められて特別に雇用された社員が運んだ。彼らは『情報配達人』と呼ばれ、社員ではあっても請負的な性格を持ち、他の社員と顔を合わすこともなく陰の存在であり、やはりスパイのようなものであった。

情報配達人であることは誰にも知られてはならなかった。なぜならダーティーなイメージを恐れて企業自らその存在を表向きには否定していたから。彼らは人知れず情報を届ける、現代の密使であった。情報配達人の存在が漏れるのを防ぐため1人の情報配達人が同じ相手に情報を届けることは1回限りとされていた。同じ地域に配達に行く場合もできる限り違うルートをとることが求められた。必然的に一定期間が過ぎた後はいわば使い捨てにされる運命であった。もちろん危険とその後の人生に見合う十分な報酬は保証されてはいたが。


新千歳で乗り継いだJASの095便はすっかり日の暮れた青森空港に定刻の19:40を5分ほど過ぎて着陸した。青森支店長は約束通り、「東北秘湯ツアーご一行様」の案内を掲げて到着ロビーに佇んでいた。やや腹の出た50歳近い支店長の姿は旅行ツアーの添乗員という役回りにはいささか貫禄がありすぎたが、隣に立つJTBや近ツーの添乗員と比べてもそれほど違和感はなかった。「お世話になります。」ダミーのクーポンを差し出し、並んで玄関を出ると支店長の自家用車で市内に向かった。信号待ちで今回の情報を手渡すと後はお互い用はなかった。必要以上の言葉を交わすことは禁じられていた。山下は青森駅前で車を降りると目星を着けてあったビジネスホテルに向かった。

次の仕事は1週間後であった。仕事は不定期で3日後のときもあれば2週間後のときもあった。その間特に出社する必要はなく自由であった。山下はいつも仕事を終えると昔からの趣味であるローカル私鉄の写真を撮りにそのまま2,3日の旅行をすることが慣わしになっていた。出社の義務はなかったが、小旅行の後は次の仕事まで社の自室で時刻表や子供の頃からの唯一の趣味である鉄道や旅行関係の雑誌を見て過ごすことが多かった。資料として希望すればどのような雑誌も直ちに自室に配達されたし、昼になれば特に頼まなくとも社員食堂よりも格段に高価な仕出しの弁当が届けられた。家族のない山下にとっていろんな意味でワンルームマンションにいるよりも好都合であった。

翌日なかなか起きられず10時ぎりぎりにチェックアウトした山下はJRでとりあえず弘前に向かった。この古い城下町からJRに平行してローカル私鉄が温泉町に通じていた。はるか昔の学生時代に来たときにはクリーム色と淡い茶色の塗りわけの古めかしい電車であったが、今では首都圏の大手私鉄のお古と思われるステンレスの味気のない電車に変わっていた。

終点の温泉の名前を冠した駅からタクシーで川向こうの去年と同じ宿に入った。大きく近代的なホテルが多い中にあって、川に面して立つ木造の旅館は造りはしっかりして風情はあったが、いかにも時代遅れであった。先方は覚えているはずもないが、玄関に出迎えてくれた女将も、部屋へ案内してくれた女中も1年前と同じ顔ぶれであった。早速露天風呂につかる、まだ日は沈んでいないが山峡の秋の風はひんやりとして、熱い湯に心地よかった。

情報配達人の世界に足を踏み入れるきっかけはこの露天風呂であった。あの時山下は郷里の市役所で出納課長をしていた。商業高校を出てから28年、ずっと経理畑を歩き気が付いたら課長になっていた。毎日、毎日伝票に印鑑を押し、1日の締めの金勘定が1円合わないとか、10円合わないとかで大騒ぎする生活にいいかげん嫌気がさしてきていたのかもしれない。それまでほとんど取ったことのない有給休暇をまとめて1週間の休みを取ると東北へ出かけた。

名古屋から仙台へフェリーで入り、地方私鉄に乗ったり、温泉に泊まる旅を続け、休暇の数も残り少なくなってきたころ、この温泉に泊まったのであった。露天風呂で同年輩の男性と旅の話、鉄道の話、仕事の話などビールを飲みながらとりとめのない話をし、翌朝宿泊代の精算のときに偶然顔を合わせて名刺を交換しただけで忘れてしまっていた。

しかし、その男は山下が何事もなかったかのようにまた出納課長としての生活に戻って1月ほどしたある日の午後、突然瀬戸内の山下の職場へ訪ねてきたのである。内心いささか迷惑に思いながらも聞いた話は思いがけないものであった。その夜指定した料理屋で男は温泉であった時とは違う名前と会社名のはいった名刺を差し出した。そこには世界的にも名前の通ったある電機メーカーの社名と第二人事部部長の肩書きがあった。切り出された内容はいわゆるヘッドハンティングに近いもので、田舎町に住む中年の公務員には信じがたいような話であった。テレビも週刊誌にも無縁な生活を送っている山下にとって「情報配達人」という言葉を聞くのも初めてであった。

仕事は国内外の支社、出張所への情報の配達であること。
仕事は国内の場合週に1回のペースであること。
仕事の期間は3年程度であること。
3年の期間が終了した後は秘密の厳守を条件に終身年金が支給されること。
報酬は必要経費とは別に1回につき30万円であること。
社会保障、社員としての身分はないこと。

その他に細かい条件を聞かされて最後に山下を驚かせたのは「場合によっては生命の危険があること」であった。しかしそのとき既に山下は心の中では引き受けることを決めていた。28年余り勤めた市役所に辞表を出し、それまで住んでいたアパートから会社が用意している都心のマンションに引っ越したのはきっちり2週間後であった。両親は既に亡くなっており、結婚していない山下の移転は思いのほか簡単なものであった。口には出さなかったがそのことも既に会社のほうでは調査済みのようであった。事実、会社では情報配達人を選ぶにあたっては入念な身元調査を行っていた。それなりの調査機関を使えば調べられないことはほとんど存在しないといってよかった。

あれから1年、山下は日本全国へ、時には海外へ情報配達人の旅を続けていた。会社が支払う報酬はいつも現金で、税金もかからなければ領収書も求められなかった。その額は当初の約束通りであったが、山下には使い切れずに1年経った今相当額が通帳に残っていた。特に身の危険を感じたことはなかったが、それでも何度か後をつけられているような気がして、教科書どおりの対応を取ったことはあった。いつしかホームでは中央に立つ、上着はリバーシブルにするといった秘密工作員のような習慣が身についていた。

後2年の期間が過ぎたらどうなるのだろう、将来に漠然とした不安はあったが、現在の生活は田舎の市役所での眠ったような生活と比べて張りがあり、緊張感があった。また会社の示していた退職後の年金の額も山下の生活を支えるには十分すぎる額であった。山下は不安を傍らに押しやって次の出張計画に取りかかった。



「そろそろ次の配達人を決めないといかんな」第二人事部部長は東京駅が見下ろせる本社ビルの部長室で候補者の調査報告書を前に独り言を口にしていた。情報配達人を管理する第二人事部は秘密厳守のため専務直轄で部長1人のみのセクションであった。現在情報配達人の数は10名、これは日本全国と世界各地に散らばる支社や出張所の数とやり取りする機密情報の量から考えて最低限の人員であった。

「そろそろ山下も3年か」健康管理部から送られてきた山下の健康管理データは明らかな肝機能の悪化を示していた。「余命後1年程度」医師の所見はそう記してあった。情報配達人になるときにそれまでの健康診断データをひそかに入手し、致命的な疾病になりそうな要因を見つけ出し、それを助長する薬剤を3年かけて飲食物に混ぜて摂取させてきた効果である。本人に渡る健康診断結果にはあくまで正常値の記載しかない。

こうして情報配達人はその利用価値が終わるころに発病して、系列の病院に収容され、確実に死亡を確認されるのであった。会社は秘密の維持をより高いレベルで確保でき、終身年金の支払から逃れることができるのであった。そしてまた一人、毎日の繰り返しに疲れた新たな犠牲者が、一見組織に縛られないかに見える、かりそめの自由と思いのほかの高収入に魅せられて情報配達人の世界に足を踏み入れるのである。

だが、彼を犠牲者と呼ぶのはいささか見当違いかもしれない。彼にとっては、それまでの単調な繰り返しの毎日よりも、情報配達人としての短い日々の方が人生と呼ぶにふさわしいものであったのかもしれない。病院で最後の時を迎えた元情報配達人の死顔は誰もが穏やかで、人生に満足しているように見えた。


・ 情報配達人 ・
THE END


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