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セ  ミ



大通りには楠の大木が続き、濃い木陰の中で、クマゼミが鳴いている。声が無数に重なり、梅雨明けの空気全体が揺らぐように鳴っている。

郷里の市役所。正面の広い階段は照り返しがきつい。かつて豪華だった白い庁舎も、ずいぶんやつれた。ガラスのドアが開くと、壁も天井も、黄土色にくすんでいる。

順番を待ち、番号が呼ばれた。死んだ人の証明と、自分の証明。もらった封筒に入れて、外の陽射しとセミの声の中へ。クマゼミは、昔もこんなふうに鳴いていただろうか。この街を出てからの年月は、この街で暮らした時間を超えている。

大通りと直角に、北へ。横切ったアーケード街は、昔のまま。ただ、シャッターを下ろしている。ディズニーを観た映画館は、どこにあったのだろう。次の通りは、かつては夏祭りの中心だった。人通りはなく、マンションと駐車場がまた増えている。

小学校では、みんなが『○○屋の子供』だった。呉服屋、牛乳屋、うどん屋、おもちゃ屋、ふとん屋。今なら犬屋はペットショップ、洋服屋はブティック。みんなの家は、どうなっただろう。

通りを渡って、児童公園の前を通る道。公園のポプラが見えると、またセミの声が近づいてきた。

子供の頃から、朝起きるのが苦手だった。夏休みには、よけいに起きられない。ラジオ体操はなかった。ようやく起きる頃、すでに空気は暑苦しい。どんよりとした頭に、クマゼミの熱帯性の音が響く。緑色に塗った隣家のトタン壁に、たいてい1匹止まっていた。

ぐずぐずと朝食を食べ、夏休み番組を見ているうちに、昼になる。宿題をするわけでなく、自分のやりたいことがあるわけでもない。何もしないまま。

午後はクマゼミが鳴きやんで、アブラゼミが聞こえていた。クーラーのある部屋を出ると、汗腺がチクチクした。夜になって熱気がやわらぎ、ホッとするのも束の間、就寝時刻の8時で、その日も終わる。

夏休み、みんなは何をしていたのだろう。友達は少なかった。暑くて、遊びに行くこともなかった。

虫取りに夢中になる。友達と走り回る。遊び呆けていて『何もしなかった』子供は幸いだ。楽しんだのだから。たとえ間際になって宿題に泣いたとしても、それは妥当な代償なのだ。

8月中旬からはツクツクホウシが鳴き始める。「どうしよう。休みが終わってしまう。」 そんな焦りと不安をつのらせるだけで、同じ毎日が過ぎていった。なにか自虐的なだらしなさ。その背景で、ツクツクホウシが声を張り上げていた。

学校には行きたくないが、夏休みの生活もイヤ。そうして楽しまなかった私にも、宿題の苦労はやってきた。楽しんだ者と同じだけ。ずいぶん損をした。

まとめて片づける覚悟か、さぼってしまう要領の良さが、あの頃の私にあったなら。夏休みの終わり頃に鳴き始めるミンミンゼミは、断末魔の悲鳴に聞こえた。

誰もいない公園を眺め、国道を渡り、小学校に通った道。学校前の通り、『○○銀座』の鈴蘭灯は、いつなくなったのだろう。

校舎はすべて建て替えられた。門は『部外者』に閉ざされ、隅に立つシュロの木だけに見覚えがあった。暗い木造校舎。うす気味悪い講堂。こわい汲取り便所。今の小学生は、そんな悪夢を見なくてすむ。

校庭の東側、幼稚園もなくなった。街の中心部では、子供が少なくなった。フェンス沿いの桜は昔のまま枝を広げ、ここでもセミが鳴いている。クマゼミにアブラゼミ。その音で、照り返しがよけいにきつい。

今ここであの頃の誰かとすれ違っても、わからない。その誰かも、私だとはわからない。

小学校を一周して、校門を背にすると、まっすぐに市役所が見える。実家から、いつも眺めていた。公園のポプラのむこうに、白くそびえていた。

ここしばらく無人となっていた実家にも、まもなく他の人が住む。郷里の街にやって来る理由が、なくなった。

だが、死んだ人も、私も、あの白い庁舎に在り続ける。存在を記録する最小限のデータとして。誰に必要とされなくても、知られることがなくても。ただ、保存されることが定められているために。

暑いセミの声で過ぎた季節。自分が嫌になった季節。記憶はどこにも保存されない。名前や生年月日ではなくて、記憶が『私』なのに。だがたぶん、だからこそ、保存されないことは喜ばしいことなのだろう。

寂れていくこの街で一番大きな建物。私の存在した痕跡があの中に残されている。そのことが、私とこの街とをつなぐただ一つのものになった。

未来の廃墟に立つモニュメントを思った。

街路樹の根元で、落ちたクマゼミの羽が透き通っていた。


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