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パンドラの壺



開けてはならぬ。そう言っておけば開けてしまうことを見越して、神様はアブナイ壺を彼女に与えた。神様は老獪だ。子供心にも、そう思われた。しかし、ありふれた疑問で、私は困ったままだった。[注1]

1.壺から『悪』が出てくる前に、パンドラは『言いつけを守らない』という『悪いこと』をしているじゃないか。

2.『厄災と悪』は壺から出て人間界に広まった。じゃあ、『希望』を外に広めなくてもいいのか。

3.いいものは何でもあったのに、なぜ、それまで『希望』は存在しなかったのだろう。

4.なぜ、『希望』が『ありとあらゆる厄災と悪』と一緒に入っていたのだろう。

頭の中を、こうしたワケのわからないことがグルグルと回っていた。昔から、考えをまとめるのが苦手だった。

時がたち、すっかり忘れていたある日、それらはあっけなく解決した。古代の人に向かって私が発した質問の答えが『一千年』後に返ってきた――そんなふうに。



そもそも、パンドラがやった『悪いこと』は、壺から飛び出した『悪』によるのとは種類が違う。あの困った美女は、人間を懲らしめる道具。神様たちが『そのように』創った人間だ。好奇心を持ち、それに負けるように。開けてはならない壺をいつかは開けるように。そしてそのプログラムは正常に動作した。

つまり、彼女のしたことは、じつは神様がしたことだった。神様が人間の行動を見越したわけではなかったのだ。

もしも、いつまでたってもパンドラが壺を開けなかったら、神様は壺ごと回収して手直ししただろうか。別の女を創っただろうか。しかし、「それなら神様が自ら中身をばらまいた方が早くて確実だ」と考えるのは、間違いだ。あくまでも、「人間がやった」ことにしなくては。

かくして、壺から飛び去った『厄災と悪』は、ウィルスのごとく増殖し、蔓延した。『希望』は、パンドラのもとに残った。すなわち、前者は人間界全体に取り憑き、後者は個々の人間のものとなった。

悪しきことは外からやって来るもの。自然災害にしても事故にしても。悪は社会にあるもの。それが悪人としてであれ制度の形であれ。善良な市民も極道人も、そう感じるのは変わらない。一方、『希望』はそれぞれの人間が心の中に持つものだ。

『希望』は外に出して広めるためのものではなかったのだ。たぶん、あわててフタを閉じなくても、飛んでいってしまうことはなかっただろう。

それまで『希望』が存在しなかったのは、必要がなかったからだ。もちろん「第3希望まで記入」という場合とは別物。いったん落ち込んでも「もう一度」「何とかしよう」と思う、回復力のことだ。この世に『厄災』も『悪』もなくて人間が苦しんだり悲しんだりすることがなければ、全てが満ち足りていれば、『希望』の存在しようがない。

だから、神様は諸々の『悪』と『希望』を壺に入れた。もともとバラ売りできないものだった。

その結果。自然災害、病気、戦禍、経済破綻、どんなに打ちひしがれても、人間は希望を持つ。希望を持たなくなったとき、その人間は死ぬか、死んだように生きるしかない。そうして希望を持って立ち上がれば、またいつか悲しみや苦しみがやって来る。

人間が生きている限り、希望はプロメテウスの肝臓のごとく再生し、何度でもうち砕かれうる。世界中どこででも、世代から世代へと受け継がれ、繰り返される。けっして許されることのない『懲らしめ』。

神様が老獪なのは、じつは、これほどまでの嫌がらせを考案したところにあったのだ。



そうだったのか。そう思ったとき、この一千年後の答えには2つ目があることに気がついた。プロメテウスとエピメテウスのことだ。兄は賢明な英雄、弟は取り柄のない愚者。この兄弟って、いったい・・・。確かに、昔そう思った。



やがて神様は堕落しきった人間を洪水で滅ぼし、一組の夫婦だけを許した。彼らは、第2世代の人間を石から造った。夫はプロメテウスの息子。妻はエピメテウスの娘。パンドラの娘でもある。[注2]

このとき、神様は『悪』や『厄災』を、そして『希望』を、キャンセルしていない。第2世代の人間も、それらに容易につまずいてしまう。「ああすればよかった」と、あとになって考える。

なぜ、『あとで考える人』エピメテウスに似たのだろう。『先に考える人』プロメテウスに似たほうがよかったのに。――しかたがない。だが、彼らは兄弟であった。

天上から火を盗んだら、神様が黙っているわけはない。プロメテウスはそれを先に考えなかった。いや、自分が受ける罰は予測した上で、人間に火を与える意義を優先したのだとしよう。しかし、神様が人間をも懲らしめるとは。そこまでは読めなかった。[注3]

そもそもその前に、彼は自らの智に驕り、ゼウスを騙して怒らせた。立場の違い、力の違い、公正不公正、のちへの影響。先に考えなかったのか? [注4]

プロメテウスが『先に』考えたのは、1段階分だけ。確かにそれは成功するが、その後のことを考えていないし、『あとで』考えたフシもない。

原因が結果を生み、結果が原因となり、因果関係は何段階も際限なく広がっていく。状況は常に変化する。知識だけでどこまでも予見できるわけではない。最初の発想だけでその後の全てが乗り切れるわけではない。いつだって、あとで考えることが必要なのだ。

「しまった。」 「ああすればよかった。」 反省と経験が知識と力になっていく。1つの『あとの考え』は、次の『先の考え』の礎となる。というより、そうしていかなければならない。

じつは、プロメテウスとエピメテウスは、兄弟セットで『人間の考え』だった。片方だけでは使えない、2液型接着剤のように。だから、誰だって、どちらか一方にだけ似ているはずはない。

それに、常に先に考え無難な方法だけを選ぶなら、可能性は制限されるだろう。時にはまず行動に出ることが新たな展開を生むだろう。それなら、たとえエピメテウスの方によく似ているからといって、残念がることはない。



そうだったのか。古代の人は、すごい。「愚かな人間のせいにして本当は神様がやったんだ」ということにして、人間の愚かさが今さらどうしようもないことを説明してしまう。知恵ある英雄を讃えながら、それだけではダメだと思い至らせる。皮肉に笑いながら。

私も笑ってしまう。パンドラのキャラクター設定には、男優位の社会が透けて見える。だが、きっと、女で苦労や失敗をしたオヤジは多かっただろう。そうして、エピメテウスに似ていることを実感しただろう。

そんなふうに思えるのは、たぶん、今に至るまで、人間の人間である部分がずっと変わっていないから。それに、神様の与えた懲らしめは今も続いているから。

さて、もし今また私が古代の人に質問をすれば、その答えは『一千年』後に返ってくるだろうか。その時、私がもういなくても、誰か受け取ってくれる人がいてくれたらいいのだけれど。

そんなふうに思うのは、希望ではなくて、夢。では、夢は、やはりあの時壺から飛び出したものなのだろうか? それとも、パンドラがその身に与えられた贈り物なのだろうか? それを古代の人に訊いてみたいのだけれど。



・ ・ ・

[注1]

ゼウスをはじめとする神族が旧世代の巨神族を滅ぼした闘いのとき、巨神族のプロメテウスはゼウス側についた。主神となったゼウスは、プロメテウス兄弟に生き物づくりを委託した。(エピメテウスが作業を担当、プロメテウスは監督だったともいわれる。)

生き物は粘土から作られ、それぞれ贈り物が与えられた。強さや素早さ、翼や牙などである。しかし、最後に作られた人間に与えるべきものがなくなってしまった。(困った現場担当者が監督に相談したともいわれる。)

プロメテウスは人間に火を与えることにした。しかし、ゼウスは彼に恨みがあるため(注4参照)、火の使用を認めなかった。人間に火を与えると神の権威が損なわれるとの判断もあっただろう。そこで、プロメテウスは天上から太陽の火を盗んだ。この犯行には、知恵の女神アテナが手を貸している。

ゼウスは、プロメテウスを捕らえて岩山に鎖でつなぎ、禿鷲に肝臓をついばませた。肝臓は翌日には元通りになって、また禿鷲のエサとなる。ついにプロメテウスはゼウスに1つの情報を提供し、永遠に続く責め苦から逃れた。

彼が教えたのは、ある女が父親以上の能力を持った子供を産む子宮を持っていることだった。その女は、まさにゼウスとポセイドンが争って我がものにしようとしていた女だった。おかげで、ゼウスは自分が父親にしたのと同じように我が子に滅ぼされずに済んだ。

一方ゼウスは、火をもらった人間をも懲らしめる。そのために、鍛冶の神ヘパイストスに絶世の美女を作らせ、神々は彼女が人間(男しかいなかった)を惹きつけるよう、美や音楽などの贈り物を施した。(パンドラとは、『あらゆる贈り物』を意味する。)

パンドラは『開けてはならない』壺を携えて、エピメテウスの妻となった。彼は兄から「神々からの贈り物には気をつけろ」と注意されていたのだが。

やがてパンドラは壺を開けてしまう。壺からは悪や悲しみ、様々な病気など、ありとあらゆる悪いものが飛び出し、飛んでいった。あわててフタをした壺の中には、希望だけが残っていた。

だからこの世には人間にとって辛いことが存在するが、どんなときでも人間は希望を持つのだ。そう解釈されるのが一般的である。

なお、壺の中にはありとあらゆる『よいもの』が入っていて、蓋を開けたためにみんな逃げてしまい、希望だけが残った、というバージョンもあるそうだ。やはり、悪と希望とが一緒に入れられていることに疑問を持った人がいたらしい。

中身についてはともかく、壺から出たものは失われるという改訂バージョンの方が、合理的である。 >本文


[注2]

洪水がおさまったあと、彼らは神託に従って、泥のついた石を後ろに投げた。夫デュカリオンの投げた石は男に、妻ピュラの投げた石は女になった。石は硬い骨に、泥は肉となって、労働に適した丈夫な人間が生まれたのである。 >本文


[注3]

もちろん、神話は、それを創った民族が自分たちの世界の『起源』を説明するためのものであって、現実に起こったことの直接の記述ではない。また、神話は、それを生んだ社会とその社会のものの考え方を反映するはずだ。

実際には「プロメテウスは神様が人間まで懲らしめることが読めなかった」のではい。「火を手にしたときから、人間は『今の世界』に住むようになったのだ」と、古代の人々が考えたのである。

火の使用は人間と動物との間に一線を引き、文明の源となった。だが、火は快適さや便利さだけではなく、争いや破滅をもたらすこともある。彼らの世界にも、悪や悲しみが絶えなかっただろう。そして、その原因を説明するために、パンドラの物語が創られたのだろう。 >本文


[注4]

犠牲として捧げられた雄牛の分配について、神々と人間とが争った。プロメテウスは、見かけは不味そうにした肉と、外見を美味しそうに装った骨とに分けて、ゼウスに選ばせた。ゼウスは後者を取ったため、供物の肉の部分は人間の取り分となった。 >本文

 

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