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海の風景



ぱらぱらと降っていた雨がやんだ。桜ほころぶ頃の夕方は、人の思うより長い。その薄色が残る空の下、山と海に挟まれたこの街に、灯がともりはじめた。

フェリーターミナルへとまっすぐに続く歩道橋を、風が通り抜ける。高く背を伸ばしたホテルの窓は、白い光のモザイク。海の方、白く背を丸めたホテルに、エメラルド色の灯りが煌めいている。

青灰色の空気を透かして見下ろすと、岸壁ではブイの補修が続いている。その向こうには、観覧車のイルミネーションがやわらかく点いては消え、色を変えパターンを変え、水に映っている。

歩道橋を歩くカップルの後ろ姿が、近づいてくる。

若くはなく、老いているというほどでもない。畳んだ傘を1本ずつ。腕がふれるかふれないかに並んで、ゆっくりと歩く。

ほかには誰もいない。彼らの話し声だけ。

「ここ、何か音がしない? 耳に突き刺さるみたいな。」

男には聞こえない。あたりを見回した。

海のホテルにはチャペルがある。その上に架けられた鋼鉄の白いパーゴラが、歩道橋の上からは近い。そこに設置された鳥よけ装置なのだろう。鳩が止まらぬよう、糞で屋根を傷めぬよう、花嫁の衣装を汚さぬよう。もっと暗くなれば、音は止まるだろう。

「鳥を追っ払うの。チャペルなのに。」

「商売だからさ。」

私は思い出した。そのチャペルから望まれる天国に、鳥が入ることはないのではなかったか。鳥は、解き放たれた魂のように空を行くけれど。

頭の上を、重なった雲がゆっくりと吹きちぎれていく。

歩道橋の下、アスファルトの広場に、海から夕闇があふれてきた。チャペルの扉は閉ざされ、その底に沈んでいる。扉の向こうの、リボンを渡した椅子の列も、まっすぐに伸びたカーペットも。

私が足を止めている間に、二人は少し遠ざかっていた。私はまた歩き出した。

たそがれ時の視界は、夢に似ている。前を行く彼らが、少年と少女に見える。まるで、おたがいに、相手の心をとらえたときの『理想の姿』に戻ったように。

まだ自分が何者かもわからぬ頃、彼らは出会った。ただ少年だから凛々しい、少女だというだけで美しい、そんな頃に。そして一つの約束がなされた。それは、二人を束縛したのか、結びつけたのか。だが、とにかく、彼らは長い恋をした。

生活の苦労、妥協の悔しさや、伝わらないことの苛立ち。やがて果たされた約束は、そんなことをも意味した。それでも、何年も何年も、ともに幾度も波をかぶりながら、沈むことなく漂い去ることもせず。そして今、ここにいる。

私の心が身体を抜け出し、彼らと向き合ったとしたら。うまく言葉にできない、しかし単純な問いを発して、『私』がそっと首を傾げたとしたら。少女はふわりと微笑んで頷き、少年の顔を見上げるだろう。少年も、静かに頷くだろう。それで『私』は安らぐだろう。

ホテルの白い建物を見上げ、道は終点に近づいた。闇の深さはすでに歩道橋を越えている。静かに、ここちよく暗い。たとえ静かでも、夜の海は黒くて、恐いけれど。

フェリーターミナルの待合室はガラス張りで、くっきりとした白い光に満たされている。並んだベンチ。ぱらぱらと座っている人たち。閉ざされた窓口。観葉植物。パソコンのモニタで見ているような。

二人はその中に入っていった。若くはなく、老いているというほどでもない。けっして贅沢とはいえない装いに、少し疲れた足取りで。

時が彼らの上を穏やかに過ぎるように。健やかなるときも病むときも。ガラスのこちら側で、そう願った。

それが呪文ででもあったかのように、自動ドアが開いた。

 

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