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別  れ



冷房のない仕事部屋。積み重ねた段ボール箱に腕を置いて、ちょっとひと息。引っ越しの荷物が、思いのほか多い。



掃き出し窓の外で、カサカサと音がした。庭の隅、硬い落ち葉の上を、猫が歩いていった。

何年か前、夏の初めごろ、同じような音をさせて雉鳩が歩いていた。屑豆をまいているうちに、1羽は逃げなくなった。

ブドウ棚に陣取り、リビングの網戸を覗き込んで大声で鳴く。水やりに出た私の頭をかすめて舞い降りる。優雅に歩き回り、すぐ近くまでやって来て、首を傾げていた。

だが、夏が終わる頃、尾羽の模様でわかるそいつだけが、姿を見せなくなった。猫に襲われでもしたか。

手なずけなければよかった。



ヒグラシの声が聞こえる。繁った庭木の影が、長くなった。山茶花、小手毬、金木犀。



いつだったかの盆休み。金木犀の根元で、眼も開いていない仔猫が鳴いていた。野良の親猫は、戻ってこなかった。親猫は、あの雉鳩を喰ったヤツかもしれなかった。

拾い上げ、汚れを落とし、段ボール箱に入れた。フタを綴じると、鳴きやんだ。

粉ミルク、スポイト、ガーゼ。仔猫がしがみついて、腕の内側は極細の傷だらけになった。そういえば、母猫の張りつめた腹に似ていなくもない。

やがて仔猫は濃紺の眼を開け、ネコらしい形になった。「うん?」と言うと、「ウン?」と返事をした。

ドアを開け、風の通り道。仔猫を腕に載せて、玄関ホールの床に座っていた。

『白い仔猫、あげます』。 張り紙を出した翌日、仔猫とミルクの缶はもらわれていった。

その夏が終わり、次の夏が過ぎるころ。開けた掃き出し窓から、猫が入ってきた。白に、見覚えのある淡いグレー縞の尻尾。みすぼらしく痩せていた。

足に身体をすり寄せて、一回り。私の顔を見上げ「ニャア」と小声で鳴いた。「うん?」と言ったら、「ウン?」と返事をした。そうして、姿を消した。

一度きり。あれは、ほんとうに、あの猫だったのだろうか。



床に腰を下ろした。手をつくと、思ったよりひんやりとした。



この床を貼ったのも、暑いさなかだった。畳をはずし、框の五寸釘を抜き。

極端に安いフローリング材は、箱から出すと、反っていた。6畳に2日かかった。完成した時には、華奢な仮押さえ釘が誇らしく見えた。

それから、どれだけ経ったのか。

本が増え、書棚が増え、機械が増え。資料を詰めた箱、プラモデルの箱。捨てるべきだったもの、捨てられないでいるもの。自分のまわりに積み上げてきた。蚕が繭を作り、閉じこもるように。

この床は、そんな私の生活をずっとその上に乗せてきた。

段ボール箱のうしろには、がらんとした書棚。荷物がすべて運び出されれば、床はもう一度、隅から隅まで姿を見せる。完成時と同じように。

そして、この家は取り壊される。

青い屋根。白い外壁。ルーフサッシのステンドグラス。長い記憶と、数十枚のデジタル画像。

だが、それで終わりではない。アルミ、スチール、木材。分別され、リサイクルされる。この家が、今の姿を失っても、どこかで何かの役に立つように。



やっぱり、花束を置いていくのはやめよう。さあ、続きを。この部屋もあと少し。

金木犀の枝を抜けて、西風がさらさらと入ってきた。

 

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