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春 の 嵐



郷里の街から見える山並みは、空との境だけが白い。そこから吹き下ろす風が、沈丁花の香りを運んでくる。

ガラス張りの葬儀場。建物の前でクラクションが一声長く響き、黒い自動車がゆっくりと動きだした。

それを見送り、黒衣の一群が散っていく。

クルマのドアが沈丁花の香りを閉め出した。春の陽射しが、だだっ広い駐車場の白線にはね返っている。しばらくそれを眺め、そして、キーを回した。



走りながら思い出したあの黒リボンの写真が、いつのまにか別の絵にすり替わっていた。現実であって現実でない、雨の情景。かつて聞いた痴呆老人の話だ。

――細い雨が降る中、住宅街を老人が歩いている。傘はなく、裸足で。――

その見知らぬ老人はグレーのジャンパーを着て、頼りなさげに少し背中を曲げ、とぼとぼと歩いている。ちょうど、それが晩年の父だったらそうであっただろうように。

何度も繰り返される色のないイメージの中で、雨は降り続け、老人は同じ場所を歩き続ける。



赤信号の交差点を真っ直ぐに行けば、旧港に出る道。その案内標識が、さっきまでの雨の情景を乾いた風景に切り替えた。

――白い真夏の光が照りつける、無人の通り。傾いたような2階建てが数軒。こちらはアーチ型の窓、隣はアラベスク模様の手摺。モルタルやペンキ、化粧タイルが、思い思いに剥げ落ち色褪せている。――

   「ああ、カフェーだったんだねえ。」 祖母が言った。

ずっと昔、初めて運転免許を手にした私は、父のクルマに祖母を乗せて、旧港に行ってみた。私が生まれる前に栄え賑わったその界隈は、荒廃寸前で時が止まったような、そんなふうにひっそりとしていた。

それ以来行ったことはない。あの建物は今も残っているのだろうか。祖母は、もういない。



信号が青に変わった。左折して少し行くと、遠く川の向こうに大型ショッピングセンターが見える。お馴染みの看板が、薄暗い動画を呼び出した。

――この街の駅に近い商店街。アーケードと両側の商店が、歩く速さで流れていく。ところどころ、シャッターに張り紙が見える。向こうの明るい出口を背景に、まばらに歩く人の姿が影のように揺れる。――

   「ここ、変な匂いがしない?」 妹が言った。

去年の夏だ。確かに、錆の浮いたシャッターの前まで来ると、異様な匂いがした。ゴミとは違う、腐敗臭。

   「まさか、中で・・・。」 二人とも、同じことを考えていた。

今はがらんとしたこの繁華街は、かつて旧港の界隈と入れ違いに勢いを増した。その中心的存在の一つが、さっきのと同じ看板を掲げる大規模小売店だった。だがそれも閉店し、取り壊されようとしている。わびしさが、加速する。



国道は4車線のバイパスとなり、一気に郷里が遠ざかる。

あの雨の情景が、街と重なっている。『街』が年をとり、衰え、頼りなさげにとぼとぼと歩いている。一つの世代が、終わっていく。

いつか、あの商店街のアーケードが可動式であることを思い出す人すらいなくなる。その頃、薄暗い入り口を見て誰かが言うだろうか。「ここは、商店街だったんだね」と。

次の『街』は、まだ生まれていない。郊外で賑わう大型店舗は『街』ではない。それぞれが支え合い競い合いながら生きる集合体ではない。一つの巨大な経済力が支配する場――それに支配される場。だが、その『街ではないもの』を選んできたのは、私たちの多くなのだ。



大型車両に混じって、街道を走る。インターを過ぎると、峠が近い。

激しい風。もしも存在しているなら、こんな風が死者の魂を彼方の岸まで吹き送るのだろう。黒リボンの写真が呼び起こした連想も、一緒に飛んでいけばいい。

山裾のカーブを回る頃、大粒の雨がガラスにぶつかってきた。嵐になりそうだ。

「沈丁花が散ってしまう。」 そう思いながら目をやった電光掲示板は、峠の気温8度を示していた。

 

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