1891年

Mine Own People

Life's Handicap は、先に出た Mine Own People の作品を取り込む形で出版された。その Mine Own People の出版には、版権に絡む事情があった。

1889年、Kipling は初めて New York を訪れた際に父親の友人 De Forest に会い、出版社 Harper Brothers の Henry Harper に紹介してもらった。しかし、彼の作品出版の話は相手にされなかった。Henry Harper は、'Young man, this house is devoted to the production of literature.' と言ったとされる。[Letter from L. de Forest]

ところが 1890年、Harper Brothers 社は、同社の雑誌 Harper's Weekly に掲載された彼の作品5編と他社の雑誌に発表された作品 (The Incarnation of Krishna Mulvaney) を、短編集 The Courting of Dinah Shadd and Other Stories として無断で発行した。

Harper Brothers 社は Kipling によれば『慰謝料』として 10ポンド渡そうとした。彼は拒絶した。

London の Athenaeum 誌上で両サイドの主張が繰り広げられた。やがて当時のアメリカにおける著作権法の不備にからんで、Thomas Hardy、Sir Walter Besant、William Black のおもだった作家3人の Harper Brothers を擁護する意見が掲載されると、彼は同誌に風刺詩を発表して反撃した。

しかし最終的には、彼は『海賊版』に対抗して正規版を出版するしかなかった。それが Mine Own People (1891) で、友人 Henry James がイントロダクションを書いている。

これ以前にもアメリカでは Kipling 作品の無断出版が行われていたが、この一件で彼は出版社に対してさらに強い不信の念を抱くこととなった。